戯曲:翌眺八重不二山(あしたながめるやえのふじやま)
三幕四場
第一幕 三軒長屋の場
役名 大工の半次郎、半次郎女房八重、隣の娘お袖、大工の松吉、中年の夫婦女房よね、亭主留、大工の三太。(本舞台、中央よりやや下手から上手一杯に三軒長屋の体、それぞれ汚い板壁、破れ障子の出入口あり、戸はすべて閉まっている。後ろは、下手横丁に続くこころ、上手は適当に秋の裏長屋の体。正面上手寄りに汚いがちゃんとした井戸があり、その上手で、中央の長屋に住む娘お袖、元気のいい町娘のこしらえで粗末だが清潔感のある格好。裾を絡げて洗濯をしている。上手よりの家に住むおかみさんよね及びその亭主留、中年の夫婦、いかにものこしらえで、井戸の正面に客席のほうに向かって立っていてポンポンと言い合う様子、秋の朝を感じさせる合い方及び鳴り物で、賑やかに幕開く)
よね ほれ、おまえさん早くしておくれよ。
留 早くしろたあ亭主に向かってえろうきつくでたな。力仕事だというから出てきてみりゃあ、褌しぼりたあバカにした話だ。
よね 何、気取ってんだよ、何時もやってる事じゃねえか。さっさと済ましてしまいナ。(留、ぶつぶつ言いながら褌と腰巻きを一緒にしてぐるぐる丸めてしぼる。しぼりながら上手で腰を屈めて洗濯しているお袖の腰にいやらしい視線を送る。)
よね おまえさん、いい眺めだろうねえ。
留 そりゃもう、こうむっちりして…
(留、にたにたしながら言おうとしてハッとする。よね、平然として桶で留の頭を殴る。)留 これはまたきついものだ。
(言いながら、猶も目はお袖のほうを見る。およね、それをみて、桶をふりあげてキッと留を見る。)
留 謝った、謝った。
(留が頭を下げた時に、お袖、裾をからげ直す。留、反射的にそっちをみると同時に、よねの桶が頭に飛んでくる。留、それをよけるとよね怒って追い掛ける。このこなし暫くあって留が下手の長屋の出入口に来たところで、丁度出てきた八重につきあたり、抱きつく格好になる。八重、町人の女房の格好ではあるのだけれど、どこか武家の娘の感じが抜けていない。)
八重 あれ、なにをなされまする。
留 ほれ、あのように鬼が来て私をぶちまする、母様いのう、母様いのう。
(留、八重に抱き付いて甘える。八重びっくりして何が何だか分からない様子。お袖は事の成り行きを面白そうに見ながら洗濯を続ける。)
八重 あれ、あの、ちょっと、これ何を。
(よね、留の行動に逆上して見境が無くなって八重につっかかる。)
よね うちのをたぶらかしたなあお前かい。虫も殺さねえような顔して、いけずうずうしい、この野郎、亭主をこっちにおだしよ。ほら、おだしったら。
(よね、八重に掴みかかる。八重、呆然としているが、やがてキッとなり、よねの手を払いのけ、留をよねの前に突き出し、二人を睨み据える。よねと留、たじたじとなる。)
八重 両人、下がりゃ。
(八重、権高に二人を見下ろす。よねと留、おそれいって平伏する。よね、はっと心付き)
よね あれまあ、お八重さんじゃあありませんか。
八重 じゃありませんかじゃありませぬ。何をそのように狂うておられるのじゃ。
よね いえ、それがこのうちの宿六がその。(よねが言いかけるところに、八重の後ろから半次郎、浴衣姿、手拭を肩に引っ掛け寝ぼけまなこで出る。)
半次 おい、おい、朝っぱらから騒々しいったらありゃあしねえ。お八重、何気張っていやがるんだい。まるでお武家さんだぜ、そいつぁよせとおいら口を酸っぱくしていってるだろうよ。
(八重、半次郎を見ると急に恥ずかしがり顔を伏せてかわいいしぐさ。)
八重 いや、いや、いや、恥ずかしゅうございますわいなあ。
半次 いさましいお武家様が、生娘に早替わりか。今度は何に替わるかねえ。おい。
八重 またそのようになぶらっしゃる。
(八重、半次郎に甘える。その間に、こそこそと逃げ出そうとするよねと留。八重、それを見て睨む。)
半次 おお、怖え怖え。
(半次郎おどける。八重、顔を伏せる。)
留・よね おお、こわやのこわや。
(調子に乗っておどける二人を、八重と半次郎キッと睨む。)
八重 おまえ様方が悪てんごうしなさるによって、わたしが叱られます。謝ってくださりませな。
半次 そう、きつく言うもんじゃあねえよ。見りゃあ、二人ともすっかり縮こまってるじゃねえか。もう、許してやんねえ。
よね どうも、あいすみません。本当にうちの人にも困ったものですよ。女と見りゃあ、でれでれしやぁがって。お八重さんも気をお付けなさいましな。半次郎さんだってどこで何していやしゃんすかしれやしねえ。
半次 おっと、そりゃあねえだろう、ええ、およねさんよ。
(半次郎むっとして、よねを見る。留あわてて、)
留 これ、かかあ、そんな事言うんじゃないよ。半次郎さん、すみませんねえ。こいつ嫉きだすと見境がねえ。おい、あやまった、あやまった。
よね おや、わたしとしたことが。まあ朝っぱらからお騒がせしてすみませんでした。でもお八重さん、本当に男ってのは…
(よねが言いかける所に、半次郎睨む。八重何のことか分からずにきょとんとしている。留、八重に触ろうとする。半次郎に睨まれたよね、もじもじと言葉を濁すが、留の行動を見て留の腕をねじあげる。)
よね ほうらねえ。
(八重に目くばせをしながら、痛がる留を引っ張って上手の長屋のほうへ行く。長屋の戸の前まできて、)
よね 八重さん、おとなしい人だと思っていたらずいぶん怖い人だねえ。やっぱりお武家の娘は違ったもんだ。
留 いや、半次郎がうらやましい。
(と、留が八重のほうを見る。よね、留の耳を引っ張って中へ入る。)
半次 朝もはよから、てえした騒ぎだ。
八重 でも、およねさんは、なにをあのように怒っておられたのですか。
半次 おおかた、留さんがお袖ちゃんにちょっかいだしたんだろうよ。よねさんはきつく焼き餅焼きだからなあ。
八重 そのようなことで、あのように怖い顔さっしゃるとは、八重はよく分かりませぬ。(八重の台詞の間、半次郎は、お袖を見ている。お袖も嬉しそうにしている。)
八重 半次郎様、お袖ちゃんがどうかしたのでございますか。
(と、言いながら半次郎を見る。半次郎がにやけているのをみて、ちょっと思入。半次郎ハッとして、)
半次 おい、八重。飯だ飯。すっかり腹ぁへっちまった。うまいのを頼むぜ。
八重 はいはい。
(と、八重は奥に入る。半次郎、井戸のほうに歩いていく。と、八重、戸口から顔を出して。)
八重 半次郎様、どこに行かれるのでございますか。
(半次郎、ちょっとびっくりして。)
半次 なに、水でも浴びようかと思ってな。
八重 直ぐ、支度できますから。
半次 おう、わかった。
(八重入る。半次郎が水をかぶるところに、お袖寄ってくる。)
袖 半さん、どうしてあんな人と一緒になったのさあ。あたい、ず〜っと好きだったんだぞ。
半次 ふん、お袖ちゃんが俺に惚れていたたあ初耳だね。しらなかったんだからしょうがないさ。
袖 もう、しってるじゃないさ。あたいと一緒になろうよう。
半次 ハッハッ、何言ってやがんでえ。
(半次郎、相手にならずに顔を洗う。お袖、半次郎にすり寄るところに、八重が顔を出しそれを見てあわてて顔を引っ込めるが、またおそるおそる覗く。)
袖 ねえ、半さん。あんな、男と女の綾も知らない堅い奥さんなんかどうでもいいじゃないよう。
半次 ほう、こりゃまいった。じゃあお袖ちゃんはそれがわかるってか。
袖 ふん。また、お袖ちゃんなんて。お袖って言ってよう。
(覗いていた八重、よく分からないながらたまらなくなって、戸を開ける。)
八重 半次郎様、お食事の支度できました。(半次郎、そちらを振り返り)
半次 おう。
(半次郎、お袖の頭をちょっとこずいて。)
半次 八重は、堅いばかりじゃあねえよ。
(袖、ぶっとふくれる。半次郎、八重と共にほいほいと中へはいる。お袖、八重の方にあかんべーをして入る。)
(と、花道揚げ幕より松吉出る。職人と遊び人の間のような格好、半次郎の兄貴分、花道七三で止まる。)
松吉 さて、半次郎のやつ、貰ったばかりの恋女房と男の付き合い、どっちを取っても面しれえや。ま、運がよけりゃあ、
(で、柝が入り、このあと唄うような調子で台詞。)
松吉 富士山が見える〜。とくらあ。
(松吉、本舞台へくる。)
松吉 おい、半次郎、半次郎いるか。
(長屋うちゴソゴソして、帯を締めながら半次郎が出てくる。)
半次 なんだよ、いるか、いるかって、おいら鯨の身内じゃあねえやい。
松吉 おう、取り込み中にすまねえな。
半次 なんでえ、松兄いじゃねえか。こんな朝っぱらから何の用だい。
松吉 こんな朝っぱらもねえやい。そういうおめえは何してやがったんだよ、まったく朝っぱらからよう。
(松吉、長屋の中を覗きこむ。半次郎、あわてて覗かせないようにする。)
半次 おい、おい、なにしに来たんだよ。ひやかしって訳じゃあないんだろう。
松吉 おう、そうだったな。いきなりあてられたもんで、肝心な事を忘れちまったぜ。おい、半よ。おいら、明日からちいと遠くの普請場へ出ばることになったんでナ、その前祝いと言っちゃあなんだが仲間内で集まろうって事になったんだ。どうだい、半、新婚早々せっかくの休みだ、悪いとは思うがそこが付き合い、行こうじゃあねえか。なあ。
半次 ほう、それでその普請場ってえのはいい銭になるのかい。
松吉 ああ、うちの棟梁の下から俺と三太の二人を御指名だからな。なんでも、あっちこっちから腕のいいのが集まるらしいぜ。それで、銭が出ねえなんてこたあ無いだろうよ。うちからあと一人ってえとお前なんだが、まあそりゃあ運がいいってもんだろう。
半次 そんなことはないぜ、兄いよ。
松吉 何いいやがる。せっかく誘いに来た俺を迷惑気に見やがって。
半次 おい、兄い。そいつあ聞き捨てならねえなあ。いつ俺が迷惑そうにしたかよ。
松吉 ふーん。じゃあ行くんだな。
半次 ああ、いくともさ。こっちゃあはなからそのつもりでえ。
(そこに、八重出てくる。)
八重 ちょっと内がとりちらかっていましたもので、すみません。もうかたづきましたのでどうぞ中へおはいりくださいませ。
松吉 おお、八重さんかい。朝からお楽しみだねえ。
八重 あれ、そのような。
(八重、はずかしそうに半次郎の胸に顔を埋める。)
八重 おまえ様、松吉殿を中へ。
半次 ああ、いいんだ、出掛けるから。
八重 あれ、いますぐでございますか。
松吉 すまねえな。八重さん。ちょっと半次郎を借りてくぜ。
(八重、半次郎をどうしても行くのかと言うような顔で見る。半次郎もしかたがないから我慢してくれという顔でみる。この動作はなるべく分かり易くおおげさにする。松吉、それをなかばあきれたように見ている。)
松吉 おいおい、そんなことされると、俺あすっかり仇役じゃあねえか。
(松吉の台詞の間も、半次郎と八重はいろいろとこなし。松吉が半次郎をつつくと、半次郎ハッとして照れる。)
半次 じゃあ八重、そういうことで、行ってくらあ。
八重 分かりました。半次郎様、これをお持ちになって下さいまし。
(と、八重大きな紙入れを出す。)
半次 おい、こりゃあうちの有り金全部じゃあねえか。もう帰ってくるなってえ謎か。
八重 なにをおっしゃいます。殿方が遊びに出ると言うときに、存分なことをするのは女房の役目。しかも、あなた様が外出なされると、留守を守るは私一人、なまじお金の無いほうが。
松吉 おい、また始まったか。
(この台詞の間に、三太、気障で嫌味なこしらえ舞台上手よりで出る。松吉、二人のやりとりを楽しそうに眺めている。)
半次 すまねえ、八重。だが、こいつぁいけねえ。ただでさえ、少ない銭でやりくりしているおまえだ。これ以上の貧乏はさせられねえ。
三太 おいおい、半次郎。くれるってんだからもらやあいいじゃねえか。ねえ、お八重さん。
(三太、八重の手を握る。半次郎それを払いのけて睨む。)
三太 おお、怖い。八重さんもこの伝で、随分怖い思いをしてるんだろうねえ。
半次 何を。
三太 ほう、やるかえ。
(半次郎、三太、お互い睨み合う。そこに松吉割って入り。)
松吉 おい、半、やめねえか。三の字もなにをそうつっかかるんだ。
(三太、半次郎、離れる。)
三太 半の野郎が浮かれてやがるんで、からかっただけだよ。まったく、しょうがねえガキだ。松よ、先に行ってるぜ。こんな野郎はおいて、おめえもさっさと来るんだな。それじゃあ、お八重さん、また参りますよ。
(三太、下手にはいる。三人、後ろ姿に思いっきり嫌そうな顔をして、お互い顔を見合わせて笑う。)
松吉 八重さんにもそういう顔ができるたあ知らなかったな。
半次 いつまでも、武家風じゃあたまらねえからな。今朝、お袖ちゃんにも怖い顔をしていたしな。
八重 また、そのようなことを。
半次 いいじゃねえか、褒めてんだよ。
八重 それでも恥ずかしいわいな。
松吉 こらこら、そいつが始まるとまた長くなる。おう、半、行くぜ。
半次 そうだな。じゃあ、八重、ちょっと行ってくらあ。
八重 気を付けていってらっしゃいませ。
(八重、半次、いつまでも離れずぐずぐずしている。)
松吉 ええ、じれったい、先に行くぞ。
(松吉、花道に行きかかる。半次郎、八重にこなしあって、すぐ走りだす。八重見送っている。花道七三で松吉と半次郎並ぶ。)
松吉 長の別れじゃあ、あるまいし。
半次 いいじゃねえか。
松吉 頭ん中は富士山だろうよ。
半次 なんだいそりゃあ。
松吉 運がよけりゃあ、不二山が見えるってな。おまじないみてえなもんだ。
半次 ふーん。
松吉 その内解るさ。
(松吉、半次郎、捨て台詞あって花道を揚げ幕に入る。拍子 幕。)第二幕 第一場 棟梁の家の二階座敷
役名 大工半次郎、同松吉、同三太、同留五郎、同金次、棟梁の寛二、棟梁女房お勝、他 大工数人。(舞台、正面手前に屋根が出て、その後ろ座敷、座敷正面は襖、上手寄りに床の間、その他全て、棟梁寛二宅二階座敷の体。大工、○□、△、◎、三太、留五郎、金次、座敷中央で、丁半博打に打ち興じている。棟梁は、床柱の前辺りで、女房お勝の酌で酒を飲んでいる。みなみなざわついているようすで、幕開く。)
金次 さあ、さあ、はっておくんねえ。
留五 ようし、半だ。俺の目だぜ。
金次 おう、三太の兄いははらねえのかい。
三太 おらあ、見だ。
(等などと、騒がしい様子、いろいろある所に、向こう揚げ幕より、半次郎と松吉、前幕と同じこしらえで、出る。)
松吉 でもよう、普請場に出ばるのもいいがあの、三太の野郎と一緒ってえのがなあ。
半次 まあ、そりゃしょうがねえさ。あの野郎飛んでもねえ奴だが、腕は確かだ。おまけに、その普請場ってえのは兄いの好きなお富士様の目の前だってえじゃねえか。それで、銭にもなるってんだから、あんまり贅沢いっちゃあいけねえやな。
松吉 そりゃあそうだがな。
(松吉、半次郎、本舞台下手にはいる。すぐ座敷にでる。)
松吉 どうも、棟梁、遅くなりやした。姐さん、お世話になりやす。
寛二 おお、松、来たか。半は連れてきたかい。
半次 どうも、棟梁。
寛二 ははは、来たか、おめえは今日は出て来やすめえと、踏んでいたがな。どうでえ、所帯持った味は。え。
半次 棟梁までおからかいになっちゃあいけません。たっぷり、松兄いにひやかされたんですから。
寛二 はは、まあいい。ゆっくりあそんでおいき。そう、ゆっくりとはしてられめえがな。ははは。
(半次郎、照れながら松吉と共に、よき所に座る。)
金次 松兄いに半次郎、おめえらもやらねえか、丁半だ。こうやって仲間内で胴を回してやりゃあ、テラもとられず楽しくやれるってえ寸法だ。ええ、どうだい。
松吉 はええはなしがいつものやつだろう。勿論やるさ。こちとらそいつがおめあてよ。おう、半、おめえもやるよなあ。
半次 いや兄い、おいらあ止しにしとくわ。
松吉 こいつあ珍しいことを聞くもんだ。博打と聞きゃあ千里でも歩こうかってえおめえがなあ。ま、それもいいだろう。無理にゃあ勧めねえよ。
三太 そうだぜ。そんな腑抜け野郎、誘うこたあねえやな。
半次 何だと。
三太 そうじゃあねえか。かかあが怖くて博打も出来ねえ、腑抜け野郎だ。
松吉 おい、こら、よさねえかい。
(松吉が止めにはいる。)
三太 腑抜けに腑抜けというのが悪いのか。
松吉 おい、三太。
半次 金の字、駒まわしてくれ。
金次 へえ、半次郎、やるんか。
半次 ああまで言われて、すっこんでられるけえ。
松吉 おい、半、そう熱くなっちゃあ勝てねえ、すこし頭あ冷やせ。
半次 松兄いまで俺を馬鹿にするか。
松吉 そうじゃねえ。ありゃあ三太の手だ。
三太 おう、こっちゃあ待ってんだ。やるのかやらねえのか、はっきりしろい。
半次 ああ、やるともさ。
三太 よし、俺の胴からだ、受けるかい。
半次 あたりきしゃりきのへそのゴマでえ。来い。この野郎。
(この後、暫く博打が続く、台詞をなるべく減らし、身振りだけで、行う。三太が浮き、半次郎はかなり負けこむ。)
三太 どうしたい。半次郎。もう終わりか。
(半次郎、がっくりとしているが、ゆっくりと顔を上げ、)
半次 これで全部だ。さしでいこうぜ。
(と、自分の前に駒を出す。)
三太 ほう、いい度胸だ。受けようじゃねえか。
留五 じゃあ、俺がふってやるよ。
(と、言いながら、三太のほうへ目くばせをする。三太、半次郎、睨み合う。留五郎、壷を振る。)
留五 さあ、どうぞ。
(三太、半次郎をじっと見る。半次郎、迷う思入。)
半次 半だ。
三太 じゃあ、俺は丁でいいよ。
(留五郎、ゆっくりと開ける。)
留五 五三の丁。
(半次郎、がっくりと崩れ落ちる。三太、勝ち誇ったように駒を集める。)
松吉 へっ。墓場の丁かよ。薄汚えおめえにゃあぴったりだな。え、三の字。
三太 おい、文句があるならはっきり言いやがれ。
(三太と松吉、お互いが掴みかかろうとするところへ、半次郎割って入り、)
半次 いいんだよ、兄い。負けたなあ、おいらの未熟だ。
三太 へっ、わかってるじゃあねえか。おいらは、朝が早いんだ。そろそろけえるぜ。半よ、博打の勝負は恨みっこなしだ。あばよ。
(三太、出ていく。それを留五郎追い掛けて出る。松吉、それを恨めしそうに見る。)
松吉 最後の、ありゃあ。
半次 ああ、サマ張りやがったな。
松吉 おい、おめえ解ってて。
半次 いや、あとで気が付いた。しかし、墓場の丁たあ、洒落がきついぜ。
松吉 そんな呑気なこと言ってていいのか。
半次 ああ、心配いらねえ。もう、すっかり遅くなっちまった。八重が待ってる。おらあ帰るわ。
松吉 そうか、じゃあな。
半次 兄い、達者でな。
(半次退場。)
松吉 とは言うものの、一文無しで帰ったら、八重さんが何と思うか。よし。
(松吉、思い付いたことがあって、金次を呼ぶ、二人でこそこそと密談している。)
松吉 ということだ。頼むぜ。
金次 おう、がってんだ。
(金次退場)
寛二 おい、松や。
松吉 え。
寛二 いい兄貴分だなあ。
(松吉照れる、拍子 幕)第二幕 第二場 元の三軒長屋の場
役名 大工の半次郎、半次郎女房八重、大工金次、お袖。町人○、□。(第一幕と同じ所、夜。舞台には誰もいないで、唄の入らない適当な合い方で幕開く。とすぐに時の鐘の音。しばらくして八重、長屋内より出てくる。)
八重 もう五つを打ったというのに、半次郎さんは、何をしていやしゃんすのかいなあ。(八重、周りを一回りして、入ろうとするところに、お袖、長屋内より出る。)
袖 おばさん、おばさん。
(八重、ちょっとムッとした思入。)
八重 おや、お袖ちゃんかえ。
袖 半さん、まだ帰らないのかい。
八重 ええ。
袖 ふーん。おかしいなあ。あたい、今晩半さんに遊びに連れてってもらう事になってるんだけど。
(八重、ぎょっとした顔になる。)
袖 嘘だよ。おばさんも人並みにゃあ嫉くんだねえ。
八重 焼くとは、どのようなものを焼くのでございますか。
袖 え。
八重 私も大工の女房、人並みに魚を焼いたり、芋を煮たり、そのくらいのことはできます。それともそのようなことが出来ないように見えるのかいなあ。
袖 ええ?
(袖、笑いだす。八重、何が可笑しいのか解らないでいる。)
八重 何か、私、可笑しいことでも言ったのですか。
袖 八重さんって、いい人ですねえ。
八重 え。
袖 そのうちあたいがいろいろ、教えてあげるよ。おやすみなさい。
(袖、ポカンとしている八重をニコニコして眺めながら、長屋内に入る。)
八重 なんじゃいなあ。
(八重、思入。と、バタバタと揚げ幕より金次、大慌ての体で出る。)
金次 大変だ、大変だ。
八重 おや、金次さん。
金次 おや、金次さんじゃあねやい。お八重さん落ち着いて聞きなせえよ。
八重 だから、なんなんですか。
金次 半次郎が。
八重 え。
金次 半次郎が、死んだ。
八重 え。
金次 死んだんだ。
八重 え。
(八重、何が何だか解らないでいる。)
金次 追い剥ぎにやられたらしいんだ。
八重 え。追い剥ぎって。
金次 とにかく、おいらが一っ走り番屋へ行ってくるから、八重さんはここから動いちゃあいけねえよ。
八重 あの、金次さん。
金次 いいね。ここから動いちゃあいけねえよ。待ってておくんなさい。
八重 あの…
金次 じゃあ、おいら行ってくっから。
(金次、駆け出す。)
八重 金次さん。
金次 へ。 なんです
八重 追い剥ぎって何ですか。
(金次、倒れそうになるがふんばって、)
金次 とにかく、そこに居ておくんなさい。
(金次、走って花道の七三迄行くと、ちょっと止まって、八重のほうに思入。)
金次 解ってんのかなあ。
(金次、揚げ幕にはいる。八重、まだぼんやりとして立っている。)
八重 半次郎、様。
(八重、ふらふらと花道に行く。)
八重 番屋へ、行かねば。
(八重、ふらつく足を、なんとかしゃんとさせながら、花道揚げ幕へはいる。)
(上手より、町人○、□、出る。)
○ おい、急げ急げ。
□ 待て待て、おめえ、さっきから何をそんなに急いでいるのだえ。
○ じゃあ、おめえ、知らねえで、俺についてきていたのか。
□ いいことがある。来い来い、と、言うからついて来たのじゃわい。
○ だから、さっさと来るがいいさ。
□ だから、なにがあるというのだ。
○ おう、それさ、横丁のお花ちゃんが浄瑠璃のさらいをやるのよ。
□ お花ちゃんがか。そりゃあ行かにゃあなるめえよ。で、何を語るのだ。
○ お花ちゃんだけに、京鹿子娘道成寺道行だ。
□ そいつあいいや。おい、急げ急げ。
(○、□、下手に走り去ると、すぐ竹本「京鹿子娘道成寺・道行の段」始まる。)〜月は程なく入汐の煙満ち来る小松原
急ぐとすれど振袖の、ひらり帽子のふわふわと、(花道揚げ幕より半次郎、憂欝そうに、のたのたとした足取りで出る。)
半次 あのクソ三太の野郎めが。まあ、負けたことはしょうがねえ、熱くなっちゃあ博打は負けだ。それにつけても、負けた金はあらあ正真有り金全部。冗談じゃねえよなあ。慣れねえはずの貧乏暮らし、やり繰りしている八重のことを、思やあ、博打に負けましたとは、さあ、言えたもんじゃねえやなあ。〜しどけなり振り、ああ恥ずかしや、
縁を結ぶの神ならで、花の御山へ物好き参り、半次 さあ、どうしたらよかろうなあ。
(半次郎、倒れる。起き上がると、)
半次 ああ、汚れちまったい。
(半次郎思入。ふと、思いついたことがあったこなし。)〜味な娘と人毎に、笑はば笑へ浜千鳥
(この間、半次郎、着物を破ったり、身体に泥を付けたりするしぐさ。)
〜君と寝る夜のきぬぎぬを、思えば憎や
半次 三太の野郎。
〜暁の
(このあと、「鐘も砕けよ」から「せきとめて」まで、唄についた振り、「恋をする身」で花道七三に座り、顔に泥をなすり付ける。このあと、竹本切れるまで、踊りにはならない程度のしぐさで、「道成寺にこそ着きにけり。」で本舞台に来る。)
半次 金をなくしたその言い訳に、追い剥ぎにあったと見せるこの風体。われながら、情けねえなあ。
(半次郎、戸の前まで行き、戸を開けようとして、思入。)
半次郎 ひょっとすると、八重の奴、追い剥ぎっても、わからねえかもしれねえな。
(半次郎、戸を開けて、)
半次 八重、帰ったよ。八重。いねえのか。こんなに遅く、はてどこへ行ったのか。
(半次郎、花道のほうへ歩く。八重、下手からでる。半次郎、花道付け際で立って揚げ幕の方を見ている。八重、半次郎の後ろ姿を見て驚く思入。)
八重 あそこに見える後ろ姿は、あれは半次郎様ではないかいな。わたしの行く末をお案じなされて、ここまで降りてきやしゃんしたのか。
(半次郎、振り向く。)
半次 八重、居たのか。
(八重、悲し気に半次郎を見る。)
八重 半次郎様、会いに戻ってきてくださった、それだけで八重は嬉しうございます。
(八重、手を合わせて半次郎を拝む。半次郎何が何だか解らずにポカンとしている。)
八重 見れば、着物も破れ、お顔もお身体も泥だらけ。さぞ、辛いことでしたでしょう。半次 いや、だからそれは、追い剥ぎに。
八重 なにもおっしゃいますな。別れが辛うございまする。
半次 おい、誰と誰が別れるのだ。
八重 え。
半次 俺はお前に去られるような真似をしたのか。
八重 そのようなことは、ございませぬが、去ぬなと言うても詮無いこと。
半次 そこらが、どうも、わからねえ。一体何を言っているのだ。おいらがこの格好はなあ、
八重 解っております、追い剥ぎに、
半次 そう、追い剥ぎに襲われて、
八重 あえない御最後。
半次 ええ。
八重 南無阿弥陀仏。
半次 おい、おい。
(半次郎、裾をまくって足をつきだす。)
半次 こいつを、よっく見ろい。
(八重、驚き、)
八重 あれ、幽霊に足が二本。
半次 おいらは、金を取られただけだ。いつから死んだ事になったんだよ。
八重 じゃあ、おまえ様、生きておられるのですか。
(八重、どっと泣き伏す。暫く泣いた後、顔を上げ、にっこり笑って、)
八重 何はともあれ、その泥だらけのお姿を(八重、半次郎を井戸の方に連れていき、水を汲む。半次郎、その水で顔を洗う。)
半次 どうも、解せねえ。八重、お前はどうして俺が死んだなどと思ったのだ。
八重 はい、金次さんが、
半次 金次が言ったのか。
八重 それで、ここを動くなと言われたのですが、しんじられなくて番屋へ。
半次 番屋に行ったのか。
八重 はい、そうしたら追い剥ぎが捕まっていて。
半次 ええ。
(半次、ぎょっとした思入。)
八重 話を聞いてみると、刻限といい、場所といい…
半次 それで俺だと思ったってえ訳かい。それにしたって金次の奴、
(半次、思入。)
八重 でも、ようございました。本当にようございましたなあ。
半次 金は盗られちまったけどな。
八重 いえ、お金は戻っておりますよ。
半次 え、どこから戻ったんだ。
八重 捕まった追い剥ぎに決まっているじゃありませんか。
半次 ああ、そうだったな。
(半次、思入。)
八重 どうかなされましたか。
半次 いやどうもしやしねえが。なあ八重、その捕まった追い剥ぎってえのは、人を殺して金を盗ったと言ったのかい。
八重 それが、絶対殺しちゃいないと言い張っていたんだそうです。本当だったんですねえ、あなたはこうして生きてここにいるんですから。本当によかった。
半次 それにしても、
八重 え。
(心配そうに見る八重に、半次郎笑って、)
半次 腹が減ったな。
八重 そういえば、わたしも少し。安心したからでしょうかねえ。
半次 心配かけたな。
八重 どういたいまして。すぐ支度しますから、内に入って。
半次 ああ、顔洗ってすぐに行くから、飯の用意を頼まあ。
(八重、中へ入る。半次郎、井戸の周りを歩きながら、考えている思入。)
半次 俺が追い剥ぎにあったのは狂言だ、その追い剥ぎが捕まる訳はねえんだが。金が返ってくる訳もねえやな、ありゃあ博打でスッたんだからな。
(半次郎、顔を洗う。)
半次 俺が殺されたことになっていたのは、あれは、たぶん、松兄いのおせっかいだ。おいらが思い付いたように、兄いも追い剥ぎのせいにしようとしたんだろうよ。
(八重、顔を出して、)
八重 支度が出来ましたよ。
半次 おう、今行く。
(半次、戸のほうに行きながら。)
半次 とにかく、明日、松の兄貴に相談しよう。
(半次郎、中に入りながら、)
半次 おい、八重。明日は早出だ。
(拍子 幕)大詰め 大川端の場
役名 大工の半次郎、大工の松吉。(本舞台、中足の二重、石垣波の蹴込み、上の方立木在って後ろ向こう両国を臨む遠見の布幕、その下にとにかく派手な富士山の絵があって、あとで、前の布幕を切り落として出す。全て大川端、秋の早朝の体。幕開くと、物売り、朝立ちの旅人等通る。適当な合方で、揚幕より半次郎、粋な出で立ちで出る。)
半次 おお、寒い。松の兄い、早出だって言ってたからな、間にあやあ、いいが。
(半次郎、本舞台に来る。上手より松吉、旅ごしらえで出る。)
半次 あそこにいるのは、ありゃ兄いじゃねえか。おおい、兄い。
松吉 おお、半か。良いところで会ったもんだ。これからおめえんちに行くところだ。
半次 へえ、どうかしたのかい。
松吉 どうかしたのかい、もないもんだ。おめえ昨日は助かったろう。
半次 俺も、ゆんべの事で話があったんだ。
松吉 なあに、礼にゃあ及ばねえよ。困ったときはお互い様だ。
半次 いや、兄い。
(半次郎が、何か言いだそうとするが、松吉はそれに気が付かずに、話し続ける。)
松吉 ちょっとしたもんだろう。え。死んだと思った亭主が生きて帰ってきたとなりゃあ金が有ろうと、有るまいと気にするこっちゃねえ。ええ。どうだったい、首尾はよう。
半次 金次に、俺が死んだと言わせたのは、やっぱり兄いか。
松吉 おかげで、夫婦円満だろう。
半次 そう簡単には、いきやしねえ。
松吉 まだ、いざこざがあるってか。
半次 なんというか、追い剥ぎが。
(半次郎が言いだそうとするが、松吉、またそれにかぶせて、)
松吉 そうだ、追い剥ぎと言やあ、おめえ聞いたか。
半次 なにを。
松吉 三太の野郎、ゆんべ、あの後、追い剥ぎに合いやがったんだ。突き飛ばされて、殴られて、気イ失った所で持ち金全部持ってかれやがったそうだ。
(話を聞く内に、どんどん嬉しそうになって行く半次郎。が、ちょっと不安になり、)
半次 で、三太は番屋には届けたのか。
松吉 いや、それが、どうも悪い遊びやってたらしくってな、届けろというのを、どうせ相手の顔もわからねえんだから、とかなんとか言って、行きたがらねえそうだ。
(半次郎、いきなり笑いだす。)
松吉 おいおい、何だよその大笑いは。いい気味だってえのは解るがな。
半次 でもよう、これが笑わずにいられるかってんだ。(笑いながら)そうか、三太か。そうかー。ハハハハ。
松吉 おい、笑ってばかりいねえで、おめえも何か話があったんじゃねえのか。
半次 (まだ笑っている。)いや、もういいんだ、兄い。もういいんだよ。
松吉 変な奴だな。
半次 いつか、話すよ。それにしてもなあ。(と、言いながら、半次郎、小さい見得。拍子柝と共に、布幕切り落とす。)
半次 兄い
(松吉、半次郎、顔を見合わせ思入。)
半次 富士のお山が、
松吉 見えるかい。
半次 よおく、見えらあ。
(派手な合方、派手な演出で、最後、舞台面おもいっきり明るくして、)
拍子 幕