EVE


 神代弓子。出身地は大阪府。1965年11月22日生まれる。血液型O。身長160cm。バスト86cmは、70のCカップ。ウェスト58cm、ヒップ86cm。
 そんなデータに何の意味があるんだろう。
 彼女が僕達の前に初めて姿を現した頃。そう、彼女がEVEと呼ばれていた時代から、彼女は、どこかヴァーチャルな存在として、僕達の前に立っていた。EVEという、その、どこから見ても風俗嬢の源氏名でしかなかった名前が、彼女という身体を得て、源氏名ではなく、ある種の特別な記号として、僕達の前に現れたのだから。
 今から思えば「EVE(イヴ)」という名前は、暗示的だったのだ。予言的と言い換えてもいい。神代弓子という、まるで普通の女性のような名前が不自然に感じるほど、彼女の存在と魅力の普遍性は、一人の女性という枠を超えて、イメージとして屹立している。未だに彼女の事を「イヴ」と呼んでしまう人が多いのは、そういうことなのだと思う。
 一人の魅惑的な肉体を持つ女性ではなく、男の欲望や本能の様々な部分を刺激し、愛してくれる、イメージとしての「おんな」の象徴として、彼女はいる。そんな彼女に対して、かつて風俗のアイドルだったとか、離婚歴とか、趣味はスキューバダイビングと衣裳デザインだとか、その他もろもろの、プライベートな情報は、ほとんど何の意味も持たない。そこに彼女がいる。そして、ビデオや映画、CD-ROMなどのメディアを通して、「おんな」を演じる女優としての彼女を見る。僕達にとっては、そこで、彼女が演じる「おんな」こそが、「イヴ」であり「神代弓子」なのだ。
 彼女の歴史を検証するのならば、彼女の演じてきた「おんな」を見ることでしか、出来得ない。そして、彼女の魅力もまた、彼女が演じている、という状況で初めて、その輝きを増す。三面記事的な、個人としての彼女にしか興味が無い人は、多分一生気が付かない魅力と輝き。
 そう、彼女は、言葉の本当の意味での「女優」なのである。

1.1984〜1990

 1984年、彼女はにっかつ映画「イヴちゃんの花びら」で、スクリーンに登場する。風俗のアイドルとしての人気から、ビデオ、映画などへの進出、という事実自体は、別にどうでもいいことだ。大事なのは、ここから、女優神代弓子という存在が始まったこと。いかに、その存在自体が「女優」である彼女とはいえ、女優の仕事に就けるかどうかは、神のみぞ知ることだからだ。
 その後も「イヴちゃんの姫」「イヴの濡れていく」とにっかつ映画に主演。さらに「感度イヴ スプリングメモリー」(1984年)、「A〜EVE 私は子猫」など数々のビデオ出演をこなす。ポルノ映画以外でも「ロケーション」(松竹)や、「童貞物語」(東映)などに出演。女優としてのキャリアを作っていく。もっとも、この当時の彼女は、今思えば、現在の凄まじいばかりの色香の片鱗しか見せていなかったのだが。
 1985年にはフィリップスからアルバム「A〜EVE」、シングル「Non,Non」を発表。いかにもアイドルらしい活動を行っている。アイドルであった、という過去は、しかし彼女の、人を惹きつける能力をより磨くことになり、それが、その後の引退、復帰という、女優としてのハンデを克服する原動力になっている。つまりは、なるべくしてなったということだ。
 その後、プライベートな事情で彼女は僕達の前から姿を消す。同時に「イヴ」という存在も、この世から消滅することになった。その時は、まだ誰も、その数年後、神代弓子という希代の女優にして、男の夢の象徴が現れるということを知らなかった。
 そして1990年。かつて「イヴ」と呼ばれていたアイドルは、女優「神代弓子」となって帰ってきた。九鬼のビデオ「白濁の花園」は、彼女の、アイドルと呼ぶにはあまりにも蠱惑的な魔性を記録した記念碑的な作品となった。ただ、まだ、その当時は、どうしても作る側が彼女を昔のイメージで捉え、その真の魅力に気が付いていなかったのは、仕方がないことだろう。どこか、アイドル=少女のカケラを覗かせた演出や設定なのだが、しかし、彼女が確実に今の彼女となる第一歩を踏み出していることは、はっきりと見て取ることが出来る。

2.1991年

 1991年以降、神代弓子は、次々とビデオに出演し、そのたびに、違った魅力を見せていくことになる。「鬼沢修二の皮めくり」では、ドキュメンタリータッチの演出の元、様々なカラミを演じ、「石垣章の果肉いじめ!」では、SEXが苦手な女が心と身体を開いていく過程を、「密まみれ」では、囚われ、言いなりにされ、責められる女性を演じている。
 既に、見るだけで起つ、と言われる、現在の彼女のほとばしる色気と妖気が、これらの作品の中でも、画面の隅々まで溢れている。
 どのような女を演じても、それらの役柄のイメージ自体を性格に把握し、それを僕達の前に提供してくれる、イメージとしてのセックスシンボル。そんな彼女の資質を様々な監督達が、それぞれの視点から引き出そうとしていることが、作品の魅力を増している。
 「石垣章の奥まで1ミリ」では、少女から27才の死までを、女学生(セーラー服の彼女!)、女子大生、イケイケ、看護婦、人妻と、女の歴史を一気に生き抜き、可憐から妖艶まで、あらゆる女の魅力の側面を見せてくれる。彼女の、自由自在に男の欲望を操る事が出来る能力は、ここで完全に開花した。
 続いて「寝室私生活」では、ひたすら夫とセックスし続ける人妻を演じる。相手の欲望に奉仕することが、心からの喜びだというような表情のフェラチオ。こういう際の彼女の魅力は、その表情やフェラテクではなく、例えば、股間にさりげなく、しかしスケベに置かれた手であり、その指のいやらしさなのだが、監督達も、この頃には、そういう彼女の資質を正確に把握している。もはや、彼女のビデオは、それだけで媚薬にもなるところまで来ている。
 「媚肉収縮」では、それまでの、イメージとしての女性を演じることから、一転して、ひたすら彼女のセックスに重点が置かれている。もはや、ここにいるのは神代弓子という女性ではなく、男のセックスへの欲望を吸収し、増幅させる、概念としての「おんな」だ。

3.1992年〜1996年

 女優としての神代弓子は、基本的には無表情だ。それは、彼女が表情で演技しようとするクサイ女優ではなく、その存在が女優であるということから来ている。しかし、常に無表情というわけではない。セックスの最中の彼女の表情は、他の誰よりも魅力的に見える。
 1992年の「宴」では、過去のレイプによる男性恐怖症に悩む女性を演じているが、こうした、硬い表情が一転する瞬間を演じさせたら、彼女の右に出る女優はいない。そして、その後に続く快楽の表情。それは、限りなく「おんな」であることを見せつける。
 「トライアングル・レズビアン4」でレズシーンを繰り広げる彼女は、だから、決して女性相手であっても男性役に回ることはない。それは彼女が責めていてもそうだ。底なし沼のような「おんな」だと思う人も多いだろう。彼女は蜜の壷であり、僕達は、そこに溺れたアリのようなものだ。それほど、彼女の「おんな」は、男の何かを確実に破壊する。そうまで「おんな」である女性は、現実生活では決して見ることが出来ない。「孔雀」で演じるのは、そんな「おんな」の典型的なケースだ。
 1993年の「告白あるいは対話」における、彼女のモノローグは、女性であることを、ひたすら訴え続けている。しかし、彼女の肉体が語る「おんな」は、それよりも雄弁に、男の欲望を挑発する。「レズ・ペンタグラム」のような、極端に作られた世界にあっても、彼女は、同じようにまるでドキュメントであるかのように振る舞うことが出来るのも、彼女が、言葉ではなく、存在、表情ではなく、色香で見せる女優だということ証明している。
 1994年には、CD-ROMオリジナル作品「ヴァーチャル未亡人」で、誘い殺す魔性の未亡人を演じ、アダルトCD-ROMの金字塔的作品となった。その後も、「アマゾネーター」(1995)「ジゴロ」(1995)とCD-ROM作品に出演し、成功を収めるのだが、それも、そもそもの存在自体がヴァーチャルである彼女にとっては至極当然の事だ。インタラクティブなメディアでなくとも、常に彼女と向き合う男は、彼女の行動に、声に、身体に、インタラクティヴに反応し、彼女との一対一の関係を築く。だから、「アマゾネーター」のビデオ版「美肉挌闘」でも、「ジゴロ」のビデオ版「女の昇天方教えます」でも、彼女は、常に、僕達の目の前で、僕達をインタラクティヴに操作する。

 存在その物が「おんな」なのだから、僕達は、これからも、彼女がいれば生きていける。そう思わされている。それが分かっていても、やはり彼女を見ると、欲望が身体中を駆けめぐることを止めることが出来ない。
 彼女はどこに行くのだろうか?