シネマシーン:映画の機械のこと
第一部:そこに機械がある
機械は、いつもそこにあった。それは人類の敵だったり、人類の救いだったり、時として「あなただけ今晩わ」のエレベータのような、恋愛の小道具だったりしながら。
映画の凄いところは、そこにこういう機械がある、ということを見せてしまえること。それがどんな仕組みで、どのような働きで、なんてことは説明しなくても、そこに「それらしき」機械が、ポンと置いてあれば、それは正常に機能してしまう。だから、問題は、「らしさ」になる。「人間ロケット」という映画では、何とも、これ本当に飛ぶんかい!というツッコミを入れたくなるほどの、何だか、ただ壁に計器が並んだ、狭い(四畳半くらいじゃない?)コントロールルームと、それとほとんど同じ様な計器盤がくっついた、でも妙に広いロケットの内部が映し出される。しかも、そのロケットこそが、映画の主役なのだ。ま、ロケットは結局大気圏を越えることは出来ないんだけど、そういう問題か?とも思う。しかし、とりあえず、ロケット自体は、ロケットというしかない形をしているし、ちゃんと、燃料を切り放しながら飛ぶという、まあ納得出来る細部も持っている。それでいいのが、多分映画なのだと思う。そこに機械があって、それはこういう風に動くんですよ、という説明さえあれば、それはその様に動くし、形がロケットならば、それは飛ぶのだ。だって、もし正確に、ロケットの内部の計器などが再現されていたところで、こっちには、それを「正確だ」と認める知識は、タトル(ハリー)でもなければ、持ち合わせていないし、それが正確であるか無いか、なんて、映画の面白さとも、機械を「見る」面白さとも無縁だから。かつて、ゆうきまさみ氏が「コンピュータのインターフェイスは、確実にGUIの方向に向かってるけど、マンガにコンピュータを出すときは、やっぱりモニタに文字がどんどんスクロールするスタイルの方がコンピュータらしいんですよ」と言っていたが、映画の機械は、正にそんなもんである。
だからといって、どんなのを出してきてもいいのか、となると、それはちょっと、ということになる。映画では、「もの」を見せるわけだから、見た目が何よりも大事だ。かつて、コンピュータと言えば、オープンリールのテープが回転し、壁一面に計器やイルミネーションやスイッチが並び、データがパンチされた紙テープがニョロニョロと吐き出されていたのは、それが「らし」かったからでもあるし、その方が「見た目」がかっこよかったからでもある。人間が空を飛ぶのに「ロケッティア」のような、小型軽量背中に背負える、なんてものは、かつては絶対かっこ悪かったのだ。ものものしさが、機械の命なのである。見た目に関してはね。
その証拠に「未来世紀ブラジル」なんて、最初からずーっと機械のオンパレードなのだけど、出てくる機械は全部、何故かカバーの無い、コードやプラグが剥き出しのものばかりだ。さらに、コードが絡み合うのと同じように、どこにもダクトが駆けめぐり、全てが一つの機械として機能しているように見えることになっている。ああ、何てものものしいんでしょ。小さなブラウン管があって、手前に拡大レンズが付いているコンピュータ端末だって、モニタをデカくすりゃいいものをね、と思ってしまうが、実はそれも、大袈裟な方が見た目が麗しい、という映画制作上の選択。技術者がヒロイックに活躍する(タトル氏の技術力を見よ)というのも、機械自体のものものしさを強調する。だけど、「1999年の夏休み」に出てくる、学習用のワープロみたいな機械の、あのスッキリした画面の中で、それだけがものものしく、機械であることを主張する、あれは何だろう。あそこまで来ると、もう細部の遊びなんて言わせない、って感じだ。何考えてるんだろう。いいけど。
デカい機械の魅力は、確かにある。ものものしいのもカッコいい。それはもう、初めてラジカセを買うときに、スイッチの数を数えて、多い奴を選んでしまった私のような人間が、意外に世間にも多いということで証明される。バカみたいだけど、バカみたいな機械が好きなんだもん。全てのロボットの基本と言われた「禁断の惑星」のボビーが、なんだかピコピコ言ってるのも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の朝起こしマシンに無駄な動きが多いのも、全ては、映画における機械の魅力として、必然だったりするのである。
アキ・カウリスマキの「マッチ工場の少女」の冒頭、えんえんとマッチを作る機械の動作だけを映しているシーンが、何だかワクワクしてしまうのも、一体、何のためにあるのか分からない「メトロポリス」の巨大な機械が、その見た目だけで私たちを圧倒するのも(しかし、あんだけ人力を要する機械というのも珍しいぞ)、大袈裟で、それらしい「機械」を目にした嬉しさだったりするのである。
とにかく、そこに機械があればよかった。いや、本当は今でも、それだけでいいんだけど、中々世間が許してくれないんだよね。その内実は。第二部:アレクシス・マシーンへの道
大袈裟な機械が画面いっぱいに広がる、そんな映画は、今やほとんど撮られることがない。しかし、映画には機械のイメージが溢れている。機械が変質したのだ。グニョグニョ、ニョロニョロと。
機械が、機械としてそこにあるだけで、何らかの感動をもたらしてくれる映画は、しかし、結構これがバカにされやすかったりもする。別にだからというわけではないが、操作する、という行為以上の接触を人間に求めてくる機械というのも、結構映画的な存在だ。
例えば「デモンシード」みたいに、人間の子供が欲しくなるコンピュータがいたりする。原作では愛撫したりもするけど、映画では、やけに機械的にSEXをする。このへんは「らしさ」の問題かもね。必要以上に擬人化すると怖くないとか(セックスするコンピュータに擬人化もないもんだけど)。この映画には、何かメイド役のロボットというか鏡みたいなヘンなのも出てくる。あれも、何だか人間に近づきたい系の機械だ。子供が出てくるのは彼女の中からだしね。
機械自体をグネグネ、ウニュウニュさせて、何だか、映画全体がバイブ大行進みたいな「バーバレラ」では、自体はもっとあからさまだ。そもそもバイブは機械なのだろうか?だったら「女淫極楽十二房」なんていうワケ分かんない映画に出てくる手押し車とか、手動式波打ち床とかだって、やっぱり機械ってことになる(どうでもいいが、この12のSEX道具がそれぞれの部屋に配置してあることを売り物にした娼館を描いただけの映画は、相当ヘンだ)。でも、「バーバレラ」に出てくる機械は、れっきとした機械なのだ。エクスタシー・マシンなんていうのも出てくるし。その全てがセックスに絡んでくるとなれば、流行のウェットウェアって感じだけど、まあ、ただの悪フザケだという説もある。どっちにしても、これだけグミョグミョしてて、でも機械としての魅力もある、というのは既に造形の勝利とかいう言葉では説明できない何かがあるような気もする。
同じパターンなら「フレッシュゴードン」というのもあるが、お笑いはこの際、脇に置いておくべきなのだろうか。「僕の彼女は地球人」(ジム・キャリー出てるよ)とか。しかし、ロケットはそもそも男根の象徴である、なんてツマンナイことを言う人をあざ笑うかのような、きちんと反り返ったペニス型宇宙船は、ここに登場する価値が十分あるのではなかろうか。もはや機械が人間になりたがっているのは明かである。
「トミー・ノッカーズ」では、ついに人間は、機械のための電池代わりにされそうになる。村の人々は、そこらのガラクタを集めただけの奇妙な発明品を作った挙げ句に、怖い目に遭うというこの映画では、全編にわたって、「未来世紀ブラジル」ばりに機械のイメージが充満している。誰もが一流の技術者になっていくというオマケまで付いて。しかしトレーシー・ローズが作る「郵便物仕分け機械」は、役に立つのだろうか?本人のセックスアピールの強烈さの前では、あれだけ魅力的な機械群も色褪せるということだろうか。ならば、人類は少しの間胸をなで下ろすことが出来る。
「鉄男 II」は?という話もある。人間が鉄になる、というコンセプトは、人間が機械になりたいということなのだろうか(ああ、銀河鉄道999)。どっちにしても人間との融合ではある。鉄製の兵器と合体する、それがどちらの意志であるかは、これは分からないよ。兵器は殺意と連動するんだから(でも、この映画では、多分どちらの意志でもないから、あんなに哀しいんだと思うけど)。
何にせよ、映画の機械は、そこにあるだけでは満足出来なくなる種類もあるらしい。「裸のランチ」のタイプライターみたいな、もうワケわかんないけど、何か欲しくなる機械(か?)もあれば、「地球爆破作戦」みたいに、コンピュータ同士が協力し合ったり(ネットワークではないのが凄い)もして、擬人化と紙一重の荒業を繰り出してくる。まるで、操作されるのには飽きたと言って、自らの物語を紡ぐために、この世に忽然と現れた「ダークハーフ」のアレクシス・マシーンだ。彼がマシーンという名前を与えられているのはそういうことかも知れない(ウソ)。遠い昔、小説家海野十三は「全人類は、科学の恩恵に浴しつつも、同時にまた科学恐怖の夢に脅かされている。恩恵と迫害との二つの面を持つ科学、神と悪魔との反対面を兼ね備えている科学に、われわれはとりつかれている」と言った。映画の機械も、常に神か悪魔として登場していたはずなのだが、いつの間にか、そういうわけでもなくなっていった。機械が意志を持ったというよりも、機械が身近になってしまった、というだけのことかも知れないが、しかし機械は、スクリーンの中で、何か別の物になりたがっているように見える。もちろん、何になってもいいのだ。映画はそれを映すだけだし、機械はそこにあれば良いのだから。怖いのは、全てが心理と人間関係に集約され、機械がそこにあることが邪魔になってしまうことだ。だってヘンな機械が動いてるとこなんて、映画以外のどこで見ることが出来る?