新宿シューティングシティ


 新宿歌舞伎町は、おそらく日本一の歓楽街であり、だからこそ日本一危険な街だろう。もはやニューヨークなどと何ら変わりはないはずのこの街に、決定的に違う要素がある。それは「銃」が基本的に存在しない、ということだ。“危険”と“安全”の境界は、銃のないこの街では、あまりにもあいまいで、肌で感じることがむずかしい。安全にしか見えないのに、体のどこかは確実に危険を訴えている、けれど、その危険は実体化せず、微熱のように何かを蝕んでいくような気がする。この街には、「狙撃」という観念もないため、もし銃があった場合、あまりに無防備な姿をさらけだす。
 日本で起こる、素人による発砲事件は、そのほとんどが、「試し撃ち」だという。「銃」を持って、何かをする、というよりも、撃ってみたいという欲望の方が大きいということだろう。「撃つ」という行為の快楽。自分が手にしている道具が、人に向けたとき殺傷力を持つ、という昂揚感。「撃つ」ことが出来る場所、という見方をすると、街の様相は一変する。それは、誰かを傷つける、という目的とは関係ない。
 映画『どついたるねん』『鉄拳』などの坂本順次監督が一九九四年に発表した作品『トカレフ』は、「銃を手に入れたとき、人は何をしようとするのか」という映画だった。この映画は、「『銃』を手にする」、という行為を徹底的に掘り下げている。銃を手にしたとき、見慣れた街が違って見えてくる、そのことが、事件をひきおこすのだ。
 だからこそ、「銃」は、「手に入れること」それ自体が犯罪とされるのである。

 それでも、誰もが、新宿・歌舞伎町では本能的に「うつ」行為へと向かっている。そうさせる匂いがここにはある。だから、歌舞伎町には、今でもバッティングセンターが二つもあるのではないだろうか。
 風俗の最先端を走り、ファッションヘルスがカラオケボックスに変わりテレクラになることもあるこの街に、バッティングセンターは存在し続けている。ひとつは、一階が駐車場になっているビルの二階、歌舞伎町のほぼ真ん中にある「オスロー・バッティングセンター」。もう一つは、一階建てで、外からも打っている人たちを眺めることができる「新宿バッティングセンター」。どちらも、ビデオゲームやピンボール、UFOキャッチャーなどのゲームがあるが、そちらはもっぱら順番待ちの間の暇つぶしに使われている。
 野球人気の低下がいわれているのに、平日の昼間でも、週末の夜中でも、何人かの男女が、マシンから射出されるボールをぶっ叩いている。ゲームコーナーには、ボールを投げて球速を測定するマシンも用意されているが、それで遊ぶ人はいない。人々は「打つ」という行為の方を選んでいる。飛んでくるボールをバットで打つ、ということがすでに“スポーツとしての”“遊びとしての”「野球」とは無関係なものに変質しているということだろう。
 ボールに向かう人たちの顔は、真剣だ。バットを振り続ける内に、目はボールを追い、スタンスは整い、スイングは的確になる。いつの間にか、「うつ」ことに積極的に立ち向かう姿勢になっているのだ。空振りして照れ笑いしていても、インパクトの瞬間の表情は、既に遊びのそれではなくなってしまっている。

 あらゆる種類の欲望を充足させるべく、性風俗、飲み屋、映画館が軒をつらねる街、歌舞伎町。それでも人々はバッティングセンターに足を運ぶ。
 さんざん夜遊びして身体はへとへとになっているというのに「さあ、バッティングセンターに行こう」と連れだって歩くサラリーマン。なんとなく彼氏についてきただけなのに、腰が痛くて眠れなくなるほど、バットを振り回してしまう女の子。憑かれたようにマシンにコインを投入し、一打ごとに何かを叫びながら打ちまくるスキンヘッド。バットをまるでライフルのように構えて、ピッチングマシンを見ているサラリーマン風のおじさんもいた。
 たとえこの街にあふれるセックスでさえも、外部の何者かを「うつ」時に得られる快感にはかなわないのかもしれない。射精も「うつ」ことには変わり無く、その快感を得るために男が成す努力は涙ぐましいものさえあるというのに。

 もっと、直接「撃つ」のならば、新宿・歌舞伎町には、本物のエア・ライフルによる射撃場が、ちゃんと存在している。そこも、バッティングセンターがそうだったように、性別年齢を超えた、真剣な表情の「撃つ」人々でにぎわっている。
 小さな雑居ビルの三階に、その「新宿射撃場」はある。一九七一(昭和四十六)年からずっと、歌舞伎町のこの場所では、BB弾や鼓弾では味わえない、金属の弾丸を使った射撃で、「撃つ」緊張感と爽快感が、無許可で、一八歳以上なら誰でも楽しめるようになっている。
 まだ現在のように“おしゃれ”ではなかったころのパチンコ屋や場外馬券場と似た、一種独特の雰囲気が漂っている店内。これが6〜7年前ならば「ダサイ」で済んでいたはずだ。しかし、無意味な装飾がいっさいないこの店の雰囲気が魅力的に感じられるまで時代は進んでしまっている。
 雑誌「HANAKO」を見て来た、という若い二人のOL。彼女たちは、ストレス発散になる、ちょっと変わったプレイスポット、というノリで遊びに来たという。そせ興奮した表情で「また来たい!」と声を揃えた。「ドキドキしてスッキリする」という。緊張感と開放感、バッティングセンターをふりかえるまでもなくそれは「うつ」という行為の本質かもしれない。それは、暴力には無縁のごく普通の女の子たちにとっても魅惑的な感覚なのだ。しかも、その感覚を呼び起こすのに歌舞伎町というロケーションが触媒となっているのも確かだ。
 店内の壁には、定期的に行われる射撃大会の結果発表が貼られている。上位に若い女の子が入っているし、さまざまな「普通の」人々が高いレベルで腕を競っているのがわかる。平日は学生、週末や夜は会社帰りの人たちを中心に賑わう。ここ二年くらいで、女性客も増え若い女性が一人で来ることも多くなったという。
 一ゲーム三〇分、弾三〇発と標的が一枚で900円。射撃場はボックスで仕切られていて、ギャラリーはガラス越しに見ることが出来るようになっている。ボックスに入り、的をセットする。的は金属音を立てて一〇メートル先へ移動していく。蛍光灯の光の下でぼんやりと光る人工芝の向こうに標的が見える。ボックスの中には、エア・ライフルと、的のどこに当たったかを確認するためのスコープが置いてある。
 射撃は坐位(座った姿勢)で行う。銃は西ドイツ製の射撃専用銃「ファインベルク・バウ」ボルト・アクションで一発づつ弾を込める。銃を構える姿勢は、みな真剣そのものだ。ただ、弾を込め、狙いを定め、引き金を引く。スコープで標的を確認し、また弾を込める。その作業を、みな黙々と繰り返している。
 自前のライフルを持ち込む人もいる。ゴルフのマイボールならぬマイライフルだ。一番奥のボックスは“持ち込み”の客用になっている。そこでは、立って撃つことも出来る。狙撃手のように、一発ごとに照準器を修正する。見ているとおおげさにさえ見えるが、慣れた手つきで銃を扱い、確実に的にヒットさせていく。

 バッティングセンターのような、開放的な発散ではない、もっと深いところでの自己の解放。カップルで来ていても、ボックスでは一人ずつが、自分のために自分の引き金を引いている。撃ち続けるうちに、意識は外部から遮断され標的に向かって集中していく。レバーを引き弾を込める動作は、コンセントレーションのための儀式の一つとなっていく。単調な弾の射出。その繰り返しのうちに、「撃つ」という行為の快楽が存在する。
 かっこいいから。何かの代償行為として。的に命中させる技術を誇れるから。スッキリするから。銃が好きだから。表面上の理由はさまざまだ。でも、みな「撃つ」ために来るのである。この店に会員の制度があるというのも、「撃つ」行為の中毒性を物語ってはいないだろうか。

 歌舞伎町の中では特に目立つことのない、どこにでもあるような雑居ビルの中で、「撃つ」行為が営々と続けられている。取材を終えて外に出ると、雨が上がった空に向けて、傘をライフルのように構えて歩いている学生風の男がいた。その男の前を通り過ぎた、少しくたびれたスーツを来た初老のサラリーマン。彼はそのまま「新宿射撃場」の看板を確認するように首をめぐらせながら、その雑居ビルへ入っていった。
 「撃つ」ことが出来る。それだけで街が違って見えるような気がする。全てが無防備に見える。大衆歓楽街として大勢の無防備な人々が集まっている歌舞伎町では、その感覚がより強められるようにも思う。
 テレビゲームのシューティング・ゲームが、えんえんと新しい興奮を求めて発表され続けるように、射撃という娯楽は、一方では単調で飽きやすいものである。しかし、歌舞伎町というロケーションを得て、射撃は「撃つ」快楽を最大限に味わえるものになるのだ。
 バッティングセンターがそうであるように、この「新宿射撃場」も、盛衰の激しいこの街で、ずっとそこにあり続けている。歌舞伎町は、「撃つ」街なのだ。