I Shall Be Released
映画「夜になっても走り続けろ!」原作

 春、早朝。昼間は買い物帰りの主婦や、ぼんやりとベンチに座る老人、走り回る子供達などで賑わうこの公園も、ようやく朝日が昇ったばかりのこの時間は、人家が近くに無いせいもあって、澄みきった冷たい朝露を含んだ空気が芝生を包んで、静かだった。雀が二、三羽、芝生に降り立って、きょろきょろと辺りを見回していたが、ふと動きを止めると、一斉に飛び立った。公園の中央を芝生に沿って通っている道の向こうから、リズミカルな足音が聞こえてきたからだろうか。足音は、心地良いリズムを刻みながら近づいてくる。ベンチに寝転がって、ぼんやり雀を眺めていた若い男が、その朝日の中から聞こえて来るような足音の方に寝ぼけまなこを向けた。
「うーっ、まぶしい。」
朝日が彼の目を刺し、視界が真っ白になった。目をしばたかせる彼の目に徐々に視覚が戻り、光の中に人の形が浮かび上がるのを見た。近づいてくるにつれ、光に溶けこんでいた輪郭がはっきりとしてきて、すらりとした背の高い女の姿を現した。明るい色のトレーニングウェアを身に着けた女が走っていた。走り慣れたフォームだった。呼吸と足音は乱れる事無く一定のリズムを保ち、無造作に後ろで一つに束ねた長い髪がそのリズムに合わせて、しゃんと伸びた背中を叩いていた。男は、その姿を、ポカンと口を開けて眺めていた。男の目は太陽を見た時のように、まぶしげにしばたかれていた。
「おはようございます。」
男に気がついた女は明るい笑顔を向けたが、男は会釈を返しただけで、走り去る女の後ろ姿を、何か信じられない物でも見たかのように目をパチパチさせて見送った。
「ふう、まぶしい。」
もう一度太陽の方に目を向けた男は、そう一言呟くと、自分の頬をつねり、顔をしかめて立ち上がった。
 男は公園を、出口の方へ歩き出した。歩きながら、ついさっき見た女の事を考えていた。考えれば考える程、それは現実に出会ったとは思えなかった。背も低く、顔だって人並みかそれ以下。しかも昨日は一人でヤケ酒を飲んだ挙げ句、公園のベンチで寝てしまうような、そんな自分と、走る彼女の姿は、どう考えても、同じ世界に属しているはずはない、と思った。ただ、もしあれが夢でないならば、もう一度、逢いたかった。
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
      われても末にあわんとぞ思う。」
彼は崇徳院の歌を口ずさんだ。落語が大好きな彼にとってみれば、この歌は再会のための呪文のようなものだった。天神様でお互いに一目惚れした見も知らぬ若い二人を再び結び付ける鍵となった歌だからだ。
「ばっかみてえ。」
思わず口から漏れたその言葉が何に向けられているのか、彼自身にも分からなかった。もしかすると、そうまで落語が好きで、新作落語の作家になるという、限り無く需要のない夢を捨て切れないでいる、その事に向けられていたのかもしれない。
 彼はふと足を止めた。小さく、ギターの音を聞いたような気がした。耳をそばだてると確かに聞こえる。耳覚えのある旋律。彼は、音の方に歩いて行った。ギターを弾いているのは、彼と同じ位の年齢に見える男だった。その少し向こうの芝生に目を向けた彼は、身体が少しだけ震えた。ギターの男が不思議そうな顔で彼を見上げていたが、彼には気にならなかった。というより、彼の目は一点に据えられたままだったので、気が付かなかったのだけれど。彼の目は、その信じ難い光景を捉えたまま、涙を流していた。「女の腕立て伏せがそんなに珍しいか?」
不意にギターの男が話しかける。
「えっ、いや、その、」
「ま、いいけどな。たださ、何も泣かなくたっていいだろうって思っただけだよ。あの女がどーかしたか?知り合いか?」
「いや、ただ、綺麗だから…。」
「ふーん。あーゆーのが好みか。俺はもう少し小柄で、色っぽいのがいいけどな。ま、好きずきだあな。」
男は再び、ギターを弾き始め、彼は女の姿を一心に追っていた。女は腕立て伏せを終え、腹筋運動、前後屈伸、開脚屈伸等を次々とこなしていた。柔らかい身体の動きと、乱れた前髪が汗で額に張り付いた顔が綺麗だった。ギターは4つのコードを繰り返し奏で、それに小さなかすれた声が歌を歌っていた。
 女は一通りのトレーニングを終えたらしく、軽く跳ねるような仕草をして、又、走って行った。彼は又、その後ろ姿をぼんやりと見送っていた。
「さて、俺もぼちぼち行こうかな。」
ギターの男は立ち上がり、歩きだした。彼はようやく、ギターの男に目をやり、曖昧に笑いかけて言った。
「あの、弾いてた曲、何ていう曲ですか?聞いた事あるんだけど、思い出せなくて…。」
「ボブ・ディランだよ。」
ギターの男は振り向きもせず、そう言うと、歩き去った。彼は、ギターの男が完全に見えなくなると、女がいた芝生まで走って行き、おもむろに腕立て伏せを始めたが、ものの5回で芝生に突っ伏した。そのままの姿勢でしばらく唸っていた彼は、仰向けになると、腹筋運動を始めた。
「しっかし、運動不足だ。」
彼は久しぶりに心から笑いながら呟いた。頭の上に太陽があった。
 次の日、彼は朝のジョギングを日課にする事にした。運動不足を痛感した事もあったけれど、何より彼女に会いたかった。会ってどうしようという訳でもないのだけれど、彼女を見ていると、それだけで気力が充実していくような気がした。彼女を見て、何かが彼の中で、変わったのかもしれない。とにかく身体を動かしたかった。
「横の物を縦にもしないような生活はやめ。これから俺は船頭になる。」
舟徳の若旦那のセリフが口をついて出る。
「会えなくったって、もともとだ。」
何度も自分に言い聞かせて、公園に向かった。最初は威勢が良かったのだが、運動不足はかなり深刻だったらしく、公園についた頃には既に肩で息をしていた。
「黄金餅じゃないけど随分くたびれたな。」
彼は努めて背筋を伸ばしながら、できるだけしっかりとした足取りで歩きだした。朝の公園の昨日は感じる事が出来なかった心地良い空気が彼の疲れを拭い去ってくれる。彼は再び走り出した。後ろから、軽い足音が近づいてきた。彼は振り向きたいのを必死で堪えながら走った。その我慢を長く続ける必要は無かった。女の息と気配が、ふわりと彼を包みこんだと同時に、女が彼の横に並んだ。
「おはようございます。」
笑顔は昨日に増して明るく、輝いてみえた。逆光で髪の回りが光っていて、彼は目をしばたかせた。
「おはよう、ございます。」
息が切れているのを隠しながら応えた。
「あれ、昨日会いましたよね。」
「え…と。」
嬉しかったし、恥ずかしかった。こんな自分を目にとめていてくれたという事が有り得るとは思っていなかったからか。色んな感情が一度に頭の中を駆け回り、身体が熱くなった。
「じゃ、お先に。」
軽快な踊るようなステップで、彼女は彼を追い越して行った。
「あの、俺、山田慶一って言います。」
背中に投げかけた声は、どうにか届いたらしい。汗が薄く光る紅潮した頬がはずみ、彼はまた、目をしばたかせた。「鈴木由美。じゃね。」
背中で弾む髪の束が、光を放射して眩しかった。
 慶一がようやく、そこに辿り付いたとき、由美は既にストレッチをほぼ済ませていた。奥のベンチには、今日もギターを抱えた男が、昨日と同じ歌を演っていた。
「よう、今日も来るんじゃないかとは、思ってたけどね。」
「ああ、来たよ。」
慶一は由美の屈伸運動を見つめたまま、ポケットからブルースハープをとりだすと、ギターに合わせて吹き始めた。「へえ。」
ギターの男は薄い笑いを浮かべて、Eの循環コードを弾き続けた。早朝の公園の隅から流れるセッションの音は、聞きようによってはシカゴ・ブルースのようではあった。

 慣れない早起きともっと慣れない運動に身体がついていかなかった慶一は、仕事を休んで寝入っていた。一人暮らしのアパートには、そろそろ西陽が刺し込み、その眩しさに、慶一はようやく目を覚ました。なんとなく避けていた太陽が好きになり始めていた。
 のそのそと起き上がると、顔を洗い、一張羅の皮ジャンに袖を通した。ポケットからハーモニカを取り出し、流しで軽く水洗いをして、右手首のスナップを効かせて水を切る。水滴が飛び散るのを見てにっこりとうなずいて、表面を拭いポケットに突っ込む。机の上に散らばっているカセット・テープを一本ずつインデックスを確かめながらケースに片付けていく。その手が一本のテープを取り上げて止まった。テープには、『絶品!五代目古今亭志ん生 富久』と書いてある。慶一が、立川談志の弟子を通してこっそりダビングしてもらった、慶一の生きる支えともなっているテープだった。しばらく見ていたが、静かに机の上に戻した彼は、そのまま部屋を出た。
 もう日が暮れようとしている公園は、慶一にとって聖域に近い朝のそこに比べると、辺りの喧騒や、一日中舞い上がり舞い降りる埃のせいで、かなりみすぼらしく見えた。彼は今朝ハーモニカを吹いていた、その位置に立って、彼女がトレーニングをしていた場所を、長い間見ていた。日が落ちた。彼は、由美が十三時間前に走り去った方向へ歩き出した。今朝、彼女が走って行く後を思わず追い掛けてしまい、そういう嫌らしい事をしている自分が不思議で、でもそうせずにはいられなかった。結局、途中で体力も尽き果て何の為にもならなかった事で、ほっとしたり、残念だったり、結局そのまま家に戻り、志ん生を聞いて寝込んでしまったのだった。その道を、また彼は歩いていた。自分が何を期待しているのか等は、考えるのも嫌だったが、それでも彼は、その道を歩いていた。朝走った道が終わっても、彼は何の逡巡も無く、ただ足の向くままに歩き続けた。ポケットの中で、Eのブルース・ハープをしっかり握り締めていた。その辺りをぐるぐると、随分長い間歩き続け、既に日は暮れた。腹が減ったな、と思ったが、歩き続けずにはいられなかった。彼女に会いたいから、ではないと思った。ただ、鈴木由美と名乗った女が住んでいるこの町を離れたくなかった。遠くから、耳慣れたギターの音が聞こえ、彼は初めて意志を持って方向を変えた。ぼんやりと歩いていた時には感じなかった疲れが、一気に吹き出したような気がしたが、彼はその、どこからともなく聞こえてくるギターの音を捜して歩いた。
「よう、お前、朝の野郎じゃねえか。」
唐突に声をかけられて、彼は振り向いた拍子に倒れそうになった。ギターの男がガードレールに腰掛けて、ニヤニヤと彼を見ていた。彼はその男に、何か彼の奥にあるドロドロしたものを見透かされたような気がして、男に背を向ける格好で、ガードレールに腰を下ろした。
「あの女の家探してるんなら、そこだよ。」
男は顎をしゃくって、目の前のアパートを示した。
「俺がここに来たのは、ギターが聞こえたからだけど…。だいたい、何も知らないのに、家探す程粋狂じゃねえよ。」
慶一はなるべくムキにならないよう、注意して喋ったけれど、つい、粋狂、などという落語ファンならではの言葉を使ってしまっていた。
「ま、どうでもいいけどよ。」
ギターの男は、また静かにギターを弾き、慶一はハープを握り締めたまま、アパートを見ていた。
「おい、女は留守だぜ。」
ギターの男が呟くように言った。だからどうした、と思ったが、慶一は何も言わなかった。しばらくぼんやりしていて、ふと慶一は、この男が、由美と何か係わりがあるのではないかという事に気が付いた。考えてみれば、この男は常に彼女の近くにいる。といっても、慶一が知る限りでは3回だけなのだが、それでも、偶然というには変である。まるで、彼女を見張ってでもいるようではないか、と思った。そういう事に今ごろ気が付くというのも、鈍い話であるが、慶一の由美と会った衝撃がそれだけ大きかったという事かも知れない。しかし、気になり出すとそういう事はどんどん気になっていくものらしく、ぐだぐだ考えるのが嫌になった慶一は、男に聞いた。
「あんたさあ、あの女の子の知り合いかなんか?」
「人に物尋ねるにしては、口の利き方が悪いな。知り合いだったらどうかするのか?」
男は相変わらず、ギターの弦を微かにはじきながら、答えた。
「あ、ごめん。えーと…。」
「鈴木だよ。」
「鈴木さん、あの女の子のお知り合いでいらっしゃいますか?」
慶一は、鈴木という姓に驚きながら、いや、鈴木は日本で一番多い姓だ、とか考えながら訊いたため、言葉が妙に丁寧になってしまった。鈴木は軽い笑いを立てた。
「俺はあいつの亭主だよ。」
鈴木はまた、笑った。くっくっ、という声が金属的な響きを持って、ギターの胴に共鳴する。慶一は勿論、それが冗談だという事はすぐに分かったのだが、それでも、一瞬、驚いた顔を見せてしまったのではないかと思い、悔しかった。
「だから、知り合いなんですか?」
少し語気が荒くなった。鈴木が何か言ったようだったが、慶一の五感は全て、道の向こうから歩いて来る男女の二人連れに全て奪われてしまっていて、鈴木の言葉を聞き取ることは出来なかった。女の方が鈴木由美である事は間違いなかった。暗くて顔がはっきりしないけれど、由美を見間違えるはずは無いと思った。
「おい。」
鈴木の方を振り向くと、既に、男はギターごと消え去っていた。慶一も逃げようとした。何故逃げなければいけないのか、とは考えなかった。ただ、逃げなければ、とだけ考えた。が、足が動かなかった。既に二人は、もう顔が見えるくらいの距離に近づいている。当然、目の前のアパートへ入るのだろうし、そうなれば、慶一の前を通ることになる。慶一は、咄嗟に、ポケットの中のブルース・ハープ ー ホーナーのプロ・ハープという黒いハーモニカだ ー を取り出した。立っていようとハーモニカを吹いていようと、同じような物なのだが、彼はハーモニカを吹いている、という行動の証明が欲しかった。ハーモニカをを取り出して、両手で握り、口に持って行こうとしたとき、急に頭に衝撃が走り、気が付くと目の前に地面が凄いスピードで近づいて来ていた。遠くで、「違う、その人は、」という声が聞こえたような気がしたが、直ぐに意識が無くなった。どこかで、いい匂いがしているような気がした。

 コーヒーの香りがした。頭が重かったし、目も開かない。ツンとヨードの臭いが鼻をつく。その刺激で、少し意識がはっきりした。ベッドに寝ているようだ、と思った。頭が痛かった。もう少し寝ていようかと思った時、ふわりといい匂いがした。この匂いは知っている。慶一は無理矢理目を開いた。
「コーヒー、飲む?」
すぐ側で声がした。この声をこんなに近くで聞くからにはこれは夢だな、と思った。それにしては頭が痛い。慶一は頭に手をやり、それから自分の頬を引っ掻いて痛みを確かめた後、ゆっくりと声のする方向へ頭を向けた。目は閉じていた。急にショックを受けたくなかった。ゆっくり目を開ける。
「はい、コーヒー。起きれる?どう?」
目の前に、今朝、鈴木由美と名乗った女がいた。大ぶりのマグ・カップを持って、心配そうに慶一を覗き込んでいた。湯気の向こうにある由美の顔は、髪を下ろしていて、朝より女っぽく見えた。そのせいか、夜のせいか、まぶしくて目をしばたかせるという事はなかった。彼はだらしない姿を見せてはいけないと、緊張してしまい、起き上がるのに時間がかかってしまったが、本人が思うほどには、他人はそういう事を気にしてはいないのだった。由美は彼を見て、ほっとしたような顔をして、コーヒーを差し出した。「あ、ありがとう。」
慶一はコーヒーを啜った。沢山、訊きたい事があるのだけれど、まだ頭がぼんやりしているのと、状況の意外さに順応出来ず、ただ、コーヒーを飲んだ。口の中が切れているらしく、熱いブラックコーヒーは痛かった。
「でも、びっくりした。急に倒れちゃうんだもん。頭、大丈夫?」
由美の屈託の無い笑顔が訊く。俺は急に倒れたのか?慶一は記憶を探ろうとするが、思い出せない。何か違うような気がする、と思ったけれど、分からなかった。
「あの…君がここまで担いできてくれたの?重かったでしょう、すびばせんね。」
こういう時に枝雀風にあやまってしまう、自分の照れ性と落語好きが恨めしかった。
「ううん。私、これでも力あるから。トレーニングにもなるしさ。」
「ああ、朝もトレーニングしてましたね。」
「体形維持は大変なのよ、女のはしくれといたしましては。」
あまり女の事に詳しくない慶一はそういうもんかとも思ったが、女の身体を見て、何となく納得出来るような気もした。部屋はさっぱりして、女女していないのだけれど、掃除の行き届き方や、食器、広い窓の透明感、等に男の部屋とは違う、ある種の清潔さを感じさせた。女の一人暮らしの部屋に初めて入った慶一は、この部屋が女の子の部屋としてどうなのか、という判断は出来なかったが、彼女がいるこの場所が、自分にとっても居心地がいいのが嬉しかった。奥の机の上に、彼のハーモニカが置いてあった。その横にニコンの双眼鏡とミノックスのカメラがあった。
「あれ、ミノックスだ。」
思わず慶一は呟く。
「ああ、これ?いいでしょう。ちょっと電子体温計みたいだけど。」
「LXか。これ欲しかったんだよねえ。」
慶一はその小型カメラを手のひらに乗せて、言った。
「でも、女の子が持ってるのは珍しいよね。写真好きなの?」
「うん、望遠鏡とかカメラとか、子供の頃からずーっと好きだったの。万華鏡とかさ、鏡とかレンズって綺麗じゃない?でも、こんなの好きだったり、力強かったりして、女らしく見られないのよねえ。男の子が怖がったりしてさ。」
由美は長い手足を伸ばして、背伸びをした。スパッツにTシャツという、お部屋くつろぎスタイルの彼女は、肩の力が抜けた自然体でいながら、その凛とした姿勢が崩れなかった。慶一は自分の姿勢のだらしなさが気になって、思わず背筋を伸ばした。
「まだ頭痛いでしょ。顔も擦りむいてるし、楽にしてなさい。」
由美は慶一の頭に手を添えて、顔を覗き込むようにして言った。
「いや、でも、そろそろ帰んなきゃ、もう随分遅いみたいだし、迷惑かけちゃったし。」
慶一は立ち上がろうとしたが、急な運動のせいか、足が凝っていて力をいれるとふくらはぎに痛みが走る。頭もまだ動かすと痛かった。
「ほらー。まだ駄目よ。私はいいから、ちゃんと休んでなきゃ。ここで帰して事故でもあったら、そっちの方が怖いでしょ。気遣ってくれるのはいいけど、私は健康、あなたは怪我人、ゆっくりしていっていいよ。」
彼女の言葉を、凄く素直に聞いている自分に慶一は驚いていた。
「うん、ありがとう。」
と言うと、慶一はまたベッドに横になった。自分が彼女に比べて、恥ずかしいと思っていた気持ちが薄れて、肩の力が抜けていくのが分かった。こんなにゆったりした気分は久しぶりだった。女の子の部屋で寝てるという状況考えると、緊張しない方が不思議だった。ついさっきまでは、確かにガチガチに緊張していたけれど、彼女の言葉を聞き、姿を見ていると、緊張するのが莫迦莫迦しく思えてきたのかも知れない。それほど由美は自然な態度で自然な姿で、慶一の前に居た。
「朝、ハーモニカ吹いてたよね、ザ・バンドの曲。一緒にギター弾いてた人知り合い?」
ベッドにもたれかかって座っている由美が、身体を反らせるようにして、慶一の方に向いた。逆さまになった彼女の顔の額の形が綺麗だった。
「え、違うよ。俺、そっちの知り合いだと思ってた。」
「ふーん、じゃ、行きずりのギター弾きね。」
「でも、このアパート知ってたみたいだし…」
「えーっ、気持ち悪い。何考えてんだろ、私追い掛けたってしょうがないのにねえ。世間は、可愛い子いっぱいいるのに。」
「でも悪い人じゃないみたいだったな。鈴木さん追い掛ける気持ちも何か分かるし…。」
慶一は言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。朝、後を尾けたのを見透かされたような気がして、彼女から目を反らそうとしたけれど、彼女は嬉しそうに笑っていたので、また赤面してしまった。
「ありがと。」
と言った由美はちょっと頬を赤くしているように見えた。
「ハーモニカ上手ね。音楽関係?」
由美は彼のハーモニカを手に取って、何か珍しいものでも見るように、興味深げに眺めていた。
「いや、落語関係。」
慶一は答えた。由美に笑われるのは覚悟の上だった。笑われても、彼女の笑顔が見られるからいいや、とも思っていたが、彼女は笑わなかった。
「へえ、私も結構好きだよ。昔の笑点とかよく見てたし。落語関係ってどんなの?落語家さんじゃないよねえ。」
「うん、まだちゃんとそれで飯食えるとかじゃないんだけど、落語の作家になりたくってね。莫迦みたいだけど。」この話題を話すとどうしても自嘲的になってしまう自分が悲しかった。それを察したのか由美は、彼にハーモニカを渡して言った。
「いつも、持ってるの?」
「うん、禁煙してからずっと持ち歩いてる。口寂しさのまぎらわせ用と趣味でね。」
「聞かせてくれるかな。」
何だか嬉しかった。慶一はハーモニカを受け取ると、軽く音を出してみてから、吹き始めた。ギターの男が弾いていた曲だった。ふいに曲名も思い出していた。
「アイ・シャル・ビー・リリースト。」
由美は呟いて小さな声で歌い出した。遠くからギターの伴奏が聞こえて来るような気がした。彼のハーモニカの音と彼女の声は、部屋の中をゆっくりと漂うように広がっていく。夜の静かな空気を邪魔しないように、微かに音が震えていた。

 慶一の仕事は、とりあえず生活するために選んだせいもあって、単純でやりがいもなかったけれど、今日は気持ち良く仕事に励む事が出来た。いつもは、ふてくされて、社長に呼ばれても、返事さえしなかった彼が、今日は、やけに愛想が良かった。そういう気分で職場を見ると、ここはここで、いい人達がいて、みんな一所懸命やっているんだな、と今更ながらに気が付いたりした。
 夕方、アパートに戻った慶一は、一張羅の皮ジャンが無い事に気がついた。今朝、由美のトレーニングに一緒について走った時は、もう着ていなかった事を思い出した。
「忘れてきたみたいだな。」
ほっとする程居心地が良かった由美のアパートを思い出して、彼はちょっと笑った。ただ歌い、話をしただけの、けれど、既に彼にとって凄く大事になっていた、昨夜の事を思い出した。彼の子供の頃の他愛のない話を聞きながら、いつの間にか眠ってしまっていた彼女の寝顔は、彼の今までの人生で見た、最も崇高な表情だと、彼は勝手に思っていた。
「惚れた、って事なんだろうな。」
と、一人言を言った彼は、自分の言葉に自分で照れてしまい、机の上のハーモニカをとると寝転がって目茶苦茶に吹いた。10穴のハープは、どんなにいい加減に吹いても何となくそれらしく聞こえるのが、また魅力だった。吹きながら彼は、
「私にも吹かせて。」
と言うが早いか、彼が吹いたばかりのハーモニカをいきなりでたらめに吹き始め、
「私も、なかなかなもんじゃない?」
と言って、無邪気に笑う彼女を思い出し、目をしばたかせた。彼女の笑顔は、イメージの中でも眩しかった。彼はふいに立ち上がると、シャツの胸のポケットに志ん生のテープを突っ込み、ハーモニカを手に持って、外に出た。
「忘れ物取りに行くだけだから…。」
誰にともなく言い訳をしながら歩いていった。もうすっかり夜だった。

 電話が鳴っている。しばらく、ぼんやりとしていた由美は、頭を2、3度振って、頬を軽く叩くと、
「よっ。」
という声をかけて立ち上がり、電話をとった。
「はい、わかりました。」
と言って電話を切った彼女は、目を真っすぐにして窓の外を見ていた。そのまま視線をベッドの方に動かす。ベッドの上には、慶一が忘れていった皮ジャンが置いてある。真一文字に固く結ばれた彼女の口元から、ちょっとだけ笑みがこぼれた。棚から少し大きめのポシェットを取り出し、中を確認した彼女の顔は、再び電話をしていた時のような真剣な表情に戻っていた。
 身繕いを済ませ、鏡の前に膝立ちになった彼女は、髪を一つに束ね、薄い口紅をひいた。立ち上がると、クローゼットの上の箱から出した皮のブーツを履き、紐を丁寧に結んだ。それを終えて立ち上がり、部屋を見回した。彼女の視線が慶一の皮ジャンの前で止まる。彼女は素早くそれを着て、姿見に映して見た。
「よし。」
鏡に映った自分の顔に満足そうに笑いかけた彼女は、そのまま部屋を出ていった。
 その歩道橋から、由美のアパートが見える事を発見した慶一は、何だか嬉しくなって、しばらく、そこから見える彼女のいる町を見下ろしていた。こうやって、彼女のアパートを見下ろしていると、彼女の声が聞こえてくるような気がした。あの皮ジャンは彼女に似合うかな、とわけもなく考えた。もし、彼女が欲しいと言えば、あげちゃってもいいな、と思った。志ん生のテープもプレゼントのつもりだった。こんなもので喜ぶかどうかは分からないけれど、自分の宝物を聞いて欲しいと思った。自分の彼女にやたら高価なプレゼントをしている友達を、彼はばっかみてえ、と思って見ていたけれど、今は、何かその気持ちが分かるような気がしていた。
「吉原をふられて帰る果報者、か。」
莫迦な川柳を呟きながら、彼が歩きだした時、彼女の声が聞こえたような気がした。驚いて声の方を見ると、階段の所で言い争いをしている男女がいた。女の方は背を向けていて、顔が分からなかったけれど、着ている皮ジャンは確かに彼のものだった。似合ってるな、と頭の隅でチラと思った。男の方は何処かで見た覚えがあった。急に、それまではっきりしなかった記憶が蘇ってた。由美のアパートの前に彼女と一緒に歩いてきた男だった。慶一は、彼に殴られるかなにかして、自分が気絶した事を確信した。じゃあ何故、由美はそのことを隠していたのか、それは分からないが、彼女が自分を助けてくれた事は間違い無い。嫌がっているらしい由美の様子を見た慶一は、急に怒りがこみ上げてくるのを感じた。既に理屈じゃなかった。彼は走っていた。走って、そのままの勢いで、その男に体ごとぶつかっていった。ふいをつかれた男は、見事に階段を転落していった。由美は、何が起こったのか分からないような顔で慶一の側に立っていた。
「貴様、やっぱり…」
かなりの勢いで転落したはずの男が、階段を駆け上ってきた。その右手に拳銃が握られているのを慶一は見た。
「違うの!この人は本当に関係無いの!」
由美がいつのまにか慶一を庇うような形で立っていた。
「由美、伏せろ!」
突然男が叫んだ。由美は慶一を抱きかかえるようにして倒れこんだ。仰向けになった慶一の目の前を、熱い風が走り抜けていった。歩道橋の手摺りで何かがはじけた。慶一は呆然としていた。拳銃を持った男が目の前にいるという事だけでも信じられないのに、今、自分めがけて弾丸が飛んで来た、なんていうのは、日常の理解の範囲を超え過ぎていた。
「走って!」
由美が叫んでいる。慶一は由美の後を追って階段を駆け下りた。
「大丈夫。私が守ってあげる。」
由美は一瞬振り返ると、そう言ってにっこり笑った。慶一はその笑顔を見て、身体中が熱くなるのを感じた。

 かなり走ったところで、男と由美、慶一は物陰に隠れて様子を窺った。
「まだ走れる?」
由美が心配そうに訊く。
「大丈夫。迷惑はかけないから。」
答えながら慶一は、一昨日の自分なら、もう倒れてるんじゃないか、と思った。
「もう、随分迷惑をかけてるよ。」
男が言う。
「ごめんね、私のせいで変な事に巻きこんじゃって。」
「これ、鈴木さんの仕事でしょ?変な事が仕事なの?」
慶一は笑いながら訊く。
「ううん。」
明るい表情で由美はポシェットから、ベレッタ・ジャガーモデル71を取り出した。
「来たぞ。」
由美の上司という男が低い声を発した。その途端、慶一の頭を銃弾がかすめていった。
「由美、分かってるな。」
上司はそう言うと走り出した。
「私達はこっちよ。離れないでね。」
由美も走りだす。慶一は身を屈めて、その後を追った。由美は見事なフットワークでジグザグに走っていた。慶一は辺りに気を配りながら、懸命にその後を走った。右手に光を見た慶一はそれを由美に伝え、由美は一発で仕留めた。「あっちはどう?」
由美が振り向く。上司の方では、かなり派手に銃撃戦が展開されているようだった。
「敵の数が多いみたいだけど…。」
慶一は答える。由美は遮蔽物を巧く使って、相手に見つからないように、徐々に上司の方へ近づいていった。それについていく慶一は大変だった。このまま走っていると足でまといになる、と感じた慶一は
「先に行ってくれ。」
と、声をかけると、そのまま、遮蔽物の後ろから由美とは逆の方向に向かって走り出した。足をひっぱる事にだけはなりたくなかった。何とか囮にでもなればと思った。足元の土がはじける。どうやら思い通りに行っているらしい。由美は既に敵の背後に回り込んでいた。いきなり、慶一の胸を熱い物が走った。彼はもんどりうって倒れた。遠くで由美の叫び声が聞こえた。慶一は胸を押さえて立ち上がった。志ん生のテープがバラバラになっていた。
「大丈夫か。」
いつの間にか上司が側に来ていた。
「ええ、無傷です。」
慶一は笑ってみせた。
「役に立ったよ。」
上司は笑って言いながら、その場に倒れた。見ると、かなり負傷していた。慶一は近くの遮蔽物の裏に上司を引きずって行った。
「大丈夫ですか?」
慶一は傷を調べながら聞いた。
「大丈夫じゃないな。見ての通りだ。」
確かにそうだった。
「これを持って由美と逃げてくれ。後の判断は由美がやるだろう。頼む。」
慶一はそのマイクロ・フィルムらしい物を受け取って、聞いた。
「僕でいいんですか?」
「よくなきゃ頼まないよ。さあ行け。由美を守るんだ。」慶一は走った。前のほうで人が倒れるのが見えた。振り向くと上司が左手で親指を突き出して合図をしていた。右手は援護射撃をしながら。慶一は頷くと、由美のいる所へ一気に走った。
「無事だったの?」
由美が叫ぶ。
「うん。ただ、君にあげようと思ってたテープを壊されちゃった。ごめんね。」
「莫迦ねえ。」
由美は彼の胸に手をあてて微笑んだ。向こうで、上司の銃弾がまた一人倒した。
「そうだ、これを預かった。」
慶一は上司の状態と伝言を手短に伝えた。
「ありがとう。まずあなたを安全な所に逃がさなきゃね。」
由美が真剣な目付きになった。
「俺も行くよ、一緒に。」
慶一は真っすぐに由美の目を見て言った。由美はかぶりを振った。
「あなたを守り切れる自信がないの。お願いだから逃げて、ね。」
「守ってくれなくてもいいよ。俺じゃ頼りにはならないだろうけど、彼に頼まれちゃったしね。」
「何を?」
「由美を頼む、って。男の約束だからね。ほら、急がないと相手方の援軍が来るんだろ?彼が援護してくれてる間に行こう。」
慶一は由美の手をとって引っ張ったが、由美はそれを振りきって言った。
「私があなたを守ってあげる。」
二人は走り出した。後ろで一際大きく銃声が轟いた。振り返って見ると、上司が仁王立ちになって、追撃者を食い止めていた。慶一は涙を流しながら走った。あの人の期待に応えなきゃ、と思った。
「ギターの音がする。」
由美が言った。立ち止まって耳をすますと、確かに前方から、耳慣れたギターが聞こえた。
「あいつだな。」
慶一は音の出ている場所を探した。音がパタリと聞こえなくなり、後ろから声がした。
「手を上げてもらいましょうか。」
二人が振り向くと、やけにごつい銃を持って、ギターの男が立っていた。
「あんたも一緒だったとはね。」
男は慶一に言った。
「この人は違うの。巻き込まれただけ。あなたが用があるのは私でしょ。この人は逃がして下さい。」
由美はまた、慶一を庇うようにして立った。
「ああ、出来るならそうしたいね。君もそっちの彼も、俺は好きだからね。うまくいくといいな、とか思ってたんだよ。だから、命までとは言わない。ブツだけ置いていってくれれば逃がしてやるよ、二人とも。」
男は本気で言っているようだった。そのことに慶一は少し感動していた。
「ブツって、これの事か?」
慶一は上司の男から預かった物を見せた。
「ああ、それだ。渡してくれるか?」
「渡せば逃がしてくれるんだな。」
慶一はゆっくりした口調で言った。
「駄目よ!それは私の仕事よ。そんな事で命だけ助かるのは嫌!それ私に渡して、あなただけ逃げてよ!」
由美は銃口を男に合わせたまま、慶一に向かって叫んだ。「これは俺が預かったんだ。ここは俺の好きにする。どうしても嫌だったら、まず俺を殺してくれ。」
慶一は一言一言に力を込めて、由美に言った。由美はしばらく慶一を見つめていたが、ふっと目を反らすと、
「わかった。」
と言って、銃を捨てた。
「そっちも銃を下ろしてくれ。」
慶一は男が銃を下げたのを見ると、近づいていった。
「俺のせいで、せっかくの彼女とうまくいかなくなったみたいだな。」
男が、本当にすまなそうに言う。
「いや彼女と知り会えたのも、君のお陰だからいいさ。」慶一は笑った。
「おまえ、いい男になったな。」
男も笑った。
「じゃ、これを渡すよ。」
慶一はポケットから次々とマイクロ・フィルムを取り出していった。四度目にポケットに手を入れた慶一は、ハーモニカを抜き出した。黒のハープを拳銃と間違えた男は、慌てて慶一の右手を押さえつけた。その瞬間銃声が響き、慶一の足元にギターが落ちてきた。
「ごめん。」
慶一は呟いた。足元に倒れた男の額に、赤い点が出来ていて、ゆっくりと広がっていた。振り向くと、拳銃を構えたままで由美が呆然と立っていた。彼は笑ってみせた。由美の顔に赤みが差した。
「行こうか。」
慶一は由美に手を差し出した。
「うん。」
由美はその手を強く握って微笑んだ。慶一はちょっとだけ目をしばたかせて、笑った。
「さ、早く!」
由美が笑い、二人は走り出した。
 もう夜が明けていた。

                     おわり