97.4.01-4.15

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1997.08.01

結婚する娘

 前から、ずーっと分からないんだけど、時々、結婚が決まると勝ち誇る女がいるじゃない? あれって何?そこに勝ち負けが出てくるって、どうも分からない。一体、あれは誰に勝ったんだ? 高校生の頃、セックスした男女は、何故か勝ち誇っていたけど、あれも分からないんだよなー。「だったら、お前ら、ずーっととうちゃんとかあちゃんに負け続けてたの?」とか思って。俺なんか、小学校の時にやられて、とてもじゃないけど勝ち誇れる気分にもなれなくて、ずーっとセックス恐怖症だったんだぞ。5年くらい。どこがどう勝ちなのか、当時誰かが教えてくれれば、俺だって勝ち誇れたのに。で、橋本治の「桃尻娘」シリーズとか読んでると、醒井さんが、「掻破って女の勲章よね」とか言って勝ち誇るシーンとかもあって、子供が出来たら勝ち誇る人とかもいて、それもまたよく分からない。しかし、一部では、どうも勝ち誇ることになっているのは確からしい。
 結婚で勝ち誇るために、自ら不幸を背負うやつとかもいるし、旦那を、実物以上に凄い奴と思わせたくてムキになる奴もいるし、父親がどれだけ泣いたかを自慢する奴もいるし、結婚が決まった途端に、独身の人とは付き合わなくなる奴もいるし、まだ結婚前のクセに、既にヨメ気分で姑との付き合いに悩む奴もいるし、独身の人に、「あなたも、そろそろ」とか言って、思いっきり顰蹙買う奴もいるし、結婚が決まった時点で、周りの既婚女性が全てライバルになって「誰よりも幸せにならねばならない」という気迫をみなぎらせる奴もいるし、人の家の子供をつかまえて「この子より可愛い子が産まれるはずだわ」とか勝手なこと思ってる奴もいるし、そういうのって、全部、勝ち負けだと思うから起こることでしょ。自分の結婚、というのが大きなイベントだということは分かるけど、それって個人的なイベントなんだから、あんまり周りに迷惑かけずに、当人同士で盛り上がっててね。
 あ、それともう一つ。結婚前の女性は不安になりがちで、精神的にも安定を欠く、というのは分かるけど、ストレスは旦那にぶつけろよ。旦那(になる人)の前でいい顔してる分のストレスを他所にぶちまけるのだけは止めよう。旦那なんて、そのためにいるようなもんなんだからさ(多分。俺だけじゃないよね)。


1997.08.02

楽器シリーズ(その1)
スチールドラムの謎

 何が不思議だって、スチールドラムという楽器ほど不思議なものはないな(あ、結婚で勝つ奴の次か)。あれは、一体何なんだ。元はドラム缶だ。しかもアメリカ軍が置いていったやつ。それをトリニダードトバコ(だよね)の人が、打楽器にしようとして、何かドラム缶切って叩いて、音階が出るようにして、ポクポク叩いて遊んでるうちに、何故か、それを使ってみんなでオーケストラ始めて、国民的な楽器にしてしまったという、本当に意味が分からないプロフィールを持っている。だいたい、何で、ドラム缶なんだ? しかも他人が置いていった奴。それで楽器を作ろうと思い立つのはいいだろう。それは許す。かつて、友人の為永直はラワンでギターを作ってしまったことだし。でも、その後の展開は何なんだ? 何故スチールドラムだけでオーケストラを組む。何故、それを、自分たちの楽器として胸を張って世に送り出す。他に何もなかったのか? アメリカ軍がドラム缶をおいていくまで、楽器は無かったのか?
 スチールドラムの不思議は、それだけじゃない。例えば、民族楽器っていうのは、ソレ相応の持ち場というものがある。例えば、サンバホイッスルならサンバとか、ギロならサルサとか、長唄なら三味線とか、シタールならインド音楽とか、リッチー・ブラックモアならストラトキャスターとか、牧伸次ならウクレレとか。しかるにスチールドラムは、スチールドラムバンドでしか使われない。もちろん、自主的に導入する人もいるけど、それはあくまでスチールドラムの音色を面白いと思うからであって、その使い道は人それぞれだ。だから、サンババンドでパーカッションやってた人でも、スチールドラムは叩いたことない、という人が多い。そして、そんな楽器のクセに、日本の楽器屋で売ってるというのが意味が分からない。しかも結構高い。あんな、ほとんど鍋の仲間みたいな、叩きすぎて穴が空いたら、思わず鋳掛け屋に修理を頼んでしまいそうなものなのに。 
 で、質が悪いのは、このスチールドラムが、結構演奏すると面白いということだ。思わず、練習してバンドで使おうとしてしまうほどだ(使うんだけど)。しかし、あの楽器、ハーモニカと同じく、一つのスチールドラムで一つのキーの音しか出せない。つまり、本格的に使おうと思ったら、欲しいキーのスチールドラムを、使うキーの数だけ買い揃えなければならないのだ。あんなのがいくつも転がってる部屋はちょっとイヤだぞ。ほとんどシェフって呼ばれるぞ。でも欲しいな。くそお。


1997.08.03

Wish You Are Here

彼が死んだ。それを知らされたのは今日になってからだった。
昨日私のアパートに遊びに来る途中の事故だったそうだ。だから、私は昨日、一日中彼を待って、ほとんど別れる決心までしていた。

もともと、何故こんなに長いこと付き合っていたのか不思議だった。共通点なんて全然無い。彼が凄く好きで、生涯の一曲だ、と言っていたポール・マッカートニーのシリー・ラブソングを、結局私は何度聞いても好きになれなかった。私は、ビートルズの曲がかかるとラジオのチャンネルを替えてしまうくらい、ポール・マッカートニーやジョン・レノンが嫌いだった。私が愛しているジョージ・クリントンを、彼は、こんなの音楽じゃない、と言った。

それでも、死んだと聞くと、何故か涙が流れた。気持ちは妙に醒めているのに、目からは涙が溢れて止まらない。涙が出ると鼻水がでて好きじゃない。私はティッシュで鼻を押さえながら、私をこんな目にあわせる彼に腹を立てていた。死ぬのはバカだと思った。

彼が無理矢理に置いて行ったシリー・ラブソングをターンテーブルに乗せる。一度だけ、聞いて、捨てよう。嫌いなレコードを手元に置いておくのは嫌いだ。ゆっくりとレコードに針を下ろす。

腹を立てていたせいか、聞いているうちにだんだんイライラしてきた。何でこんな曲が好きなの、と、今さら考えた。ねえ、と、私は彼に声をかけた。彼はこちらを向いて笑っている。別に怖くはなかった。彼は当たり前のようにそこに座っている。もう、寒くなってきたというのに。季節はずれ。これじゃ、レコードが捨てられない、と思うと、また腹が立ってきた。

曲が終わると、彼はいなくなっていた。私はまた、涙を流していた。どうしてだろう。凄く怒ってるのに。本当に私は怒ってるんだからね。


1997.08.04

楽器シリーズ(その2)
アコーディオンが好きっ

 アコーディオンという楽器は、小学校の音楽室に死ぬほどあるからと思ってなめていると、これが意外と高価な楽器なのだ。私が敬愛するアコーディオン弾きスティーブ・ジョーダンが、自らの名前を冠したモデルなんて、30万円くらいする。安い奴でも、8万円くらいから、という、なかなかのものだ。同じ鍵盤楽器で、しかも、何十音色も出せて、音色のエディットも自由自在のシンセ系の楽器なら、10万も出せばそれなりのものが買えるというのに(MIDI音源カードなんて安いぞ)、あんな、蛇腹に鍵盤付けただけの、100万年も前から進化してないようなものが何故高いのだろうか。
 しかし、アコーディオンは面白い。何と言っても、持ち運び可能な唯一のアコースティック鍵盤楽器だし、ソロもとれれば、伴奏もいけるし、バンドの中で使ってもいいし、一人で演奏しても様になる。歩きながらだって演奏できるし、楽器としてのデザインもキレイだ。
 音だって、妙に哀愁を漂わせることも出来れば、陽気なポルカだってOK。むせび泣くフレーズから、間抜けな音、ハードな早弾き、チンドン屋風の大正ジンタも出来れば、プログレ風の音楽だって出来る。マイクにディストーション噛ませてスティーブ・ジョーダン風インプロヴィゼーションだってやれるし、リバーブ使って異国情緒を漂わせることも出来る。もう、気分はバンドネオンのジャガー!である(しかし、実は私、バンドネオンとアコーディオンの区別があんまりついていない)。
 ということで、アコーディオンはいいので、この間衝動買いした。22鍵盤で、5つしかコードがでない9800円の中国製オモチャのアコーディオン。しかし、それでも充分楽しい。蛇腹がバリバリ言おうと、付属のケースの大きさが合わなくて、本体がケースに入らなくても、肩紐が短くて使えなくても、鍵盤の木口が新品のはずなのに真っ黒になっていても、それでもアコーディオンはアコーディオン。


1997.08.05

誰が歌う 第一回

 ちょうど、そこにミクが倒れていた。その場所に、真っ黒な、まるで鴉のような鳩が舞い降り、何かを啄んでいる。ぼんやりと、鳩を、草を、町のあかりを、彼女は眺めていた。ここに来たからといって、どうなるものでもない、そんなことは百も承知だ。
 あれから、まだ半年しか経っていないというのに、なんて変わってしまったのだろう、と彼女は考える。「ミク」とつぶやく。かつて妹だった女の名前。彼女の記憶の中にある、妹だった頃の名前。おねえさん、彼女は今も、私のことをそう呼ぶ。だが、その声は、何故か幻聴のようにしか響かないのは、私が変わったせいだろうか?
 ミクが倒れていた場所に、ミクが倒れていた格好で、彼女はゆっくり身を横たえる。忘年会帰りらしい数人の男達が、怪訝そうにこちらを見ながら通り過ぎていく。ぴったりと地面に付いた耳に、地下鉄が通り過ぎていく音が流れ込む。瞬間、彼女には、その車両の中で交わされる数々の会話が、全て聞き取れたような気がした。
「おねえさんはどうなの?」
「うん、まだダメみたい。」
ミクは答える。ダメ?何が?おねえさんはおねえさんだ。彼女の目に、私が妹として映っていなくても。
「一度連れていってみたら?」
マコが声を張り上げる。夏の地下鉄東西線で喋るのは疲れる。こんな大声で、こんな話はしたくないと、ミクは思う。くたびれたスーツのサラリーマンが汗を拭くハンカチ越しに、さっきから彼女をチラチラと見ている。
 ふいに、どこかで叫び声が聞こえた。ミクの肩が震える。
 おねえさん?
 まさか。私までどうかしてしまったのだろうか。無理に病院に連れていこうとしたことが、今では悔やまれてならない。あれ以来おねえさんは口をきいてくれなくなった。それでも返事くらいはしてくれていたのに。
 ミクは、優しかった姉の声を思い出しながら、ギターケースを抱えてホームに降りた。
 地上に出ると雨が降っていた。
(続く)


1997.08.06-08

セクハラメール
(PC DECOという雑誌に書いたエッセイの再録。ゴメン、日曜からはまた書き下ろすから。)

 ある女性のホームページには、「本当に、自分で作っているのか?」とか、「何の仕事をしているのか?」とか、「男が作っているのではないか?」とかいうメールがいっぱい来るという。そのページは、彼女のセルフポートレートがたくさんあるし、彼女の考えていること、好きなもの、など、彼女に関するデータも多く、ホームページとしても楽しく、よく出来ている。しかし、職業が伏せてあるというだけで、それを「知りたい」と思う人が多いようだ。しかし、あまり男性のページに「女が作ってるんだろう」というメールが来たという話は聞かない。既に、根強い差別があるようなものだ。
 俗に「セクハラメール」と呼ばれるものがある。言葉通り性的いやがらせを目的としたメールのことなのだろうが、これが、話には聞いても、実際に受け取ったことがある、または、出したことがある、という人を見たことがある人は、ほとんどいないのではないだろうか。そう、セクハラメールとは、その言葉や概念が先走りした幻のようなものだ。
 現在は、露骨に性的な描写をしたり、「やりたい、したい」を前面に出すアプローチ自体が既に姿を消しつつある。日本でのセクハラに関する問題は、ほとんど、50才以上の会社の上司とかいう存在の人々による「性的な存在としての女性への憧れと思いこみ」によるものか、コンパなどでの、気の弱い男による「酔ったフリして触ろう」レベルのものを指すことになっているようで、そんな人はまだネット社会にあんまり参入してないということも、セクハラメールが幻である原因の一つだ。
 しかし、セクハラという言葉をやめて、ネットストーカー的な現象へと話を広げれば、実はかなりの数の、ストーカー的メールが飛び交っているのだ。例えば、「あなたのホームページを見ました。とっても良かったです。」というようなメールを受け取ったことのある女性は多いと思う。このメール自体は、別にセクハラでも何でもない。しかし、このようなメールを出した人のほとんどは、女性のホームページにしか、こういうメールを出さないのだ。ここでも「女性だから」という意識が露骨に働く。そして、このようなメールは、顔写真が出ていて、それに対して可愛い、と思う女の子に向けて発信されている。それが意識的なら、「ナンパ」であり、別に問題はない。でも無意識なら、それは既にストーカーまであと一歩というような場所にいる男なのだ。ストーカーというのは、取り立てて異常なものではない。普通に人間が持っている愛情が、ほんのちょっとエゴに傾けば、あっという間にその人はストーカーと化す。例を挙げてみよう。ある女性が、12月24日に、彼氏以外の男性と遊んでいた。それは、彼氏が「クリスマスだからって、わざわざ何かするのはイヤだ」と言って仕事の予定を入れてしまったからだったのだが、しかし、その彼は、その日の深夜、彼女にFAXを入れ、その返事が無かったからか、更に彼女の家に電話をした。もちろん彼女は出ないから、そこにメッセージを吹き込む。そのメッセージを外出先から聞いた彼女は、彼に電話をし、FAXの用紙が切れていたことや、今帰ってきたことなどを話す(もちろんウソだけど)。そして、電話を切ったのだが、その彼氏は、その直後にまた、彼女の家に電話をしているのである。そして、今からそっちに行く、というメッセージが吹き込まれていたというのだ。もう、これは「ストーカー」だ。その場にいない相手を、自分の不安や思いこみだけで縛ろうとするのは、充分異常な考え方だ。しかし、世間では、このようなことを「ストーキング」とは呼ばない。異常者と紙一重の自分を見たくはないから。
 ただのメールのやりとり、そう思っている相手が、あなたのメールに対して、どのような受け取り方をしているかは、絶対分からない。たとえ、その返事が普通のものであっても、あなたに対する思いこみは、物凄く膨れ上がった妄想かもしれないのだ。「そんな人とは思わなかった」というセリフは、その代表的なものだ。
 もし、あなた(男女不問)が受け取ったメールに、必要以上にホームページを褒めているものがあったり、あなたの性格や人格について触れていたり、個人的な情報を知りたがったり、そんな内容が含まれていれば、それは、いつでもストーカーになることが出来る人からのメールなのだ。


1997.08.09

人格ヴァリエーション

 別に、ちゃんと話したこともない、ほんの二、三度会ったことがあるだけの相手に、いきなり人格を決められてしまうことがある。何故か、「カラオケといえば納富さんよね」とか言われてしまったことがあって、結構ビックリした。私は、歌うことは大好きだけど、特にカラオケが好き、というわけでもない。誘われれば行くし、行けば楽しいけど、年に5回も行けば多い方だ。仲良くない人はもちろん、あんまりよく知らない人とカラオケに行くのは嫌いだし、もともと、喋るのが好きだから、せっかく人と会ってるなら、歌ってるより喋りたいしね。でも、その人の中では、私はカラオケの人なのである。何故、そう思ったかは不明。
 で、考えたのだけれど、二、三度話した、その時の印象や言動の中にあった何かと、その人が持っている人格のヴァリエーションの中の「カラオケ好き」が一致したのではないだろうか。案外、人間はパターン認識を無意識にやるし、思いこみが強い人とか、人間観察が得意だと思ってる人(この二つって、だいたい同居してるってのが困り物)は、その傾向が強い上に、自信有るもんだから、それは、その人の中で事実になってしまう。
 これって、結構怖い。わざと、それで遊ぶというのはあるけどね。「あの人って、きっとこういう人に違いない」とか言って、シチュエーション作って、その中での言動を予想したりシミュレーションしたり、でも、それは遊びであって、それが当たっていたとしても、そのことに大した意味はないはずだ。だって、もう一度同じシチュエーションで試したら、また結果は変わるんだし。
 「私が知ってる人って、大体そうだから」というセリフは、かなり聞く。何か、私にとっては、それが人格ヴァリエーションの中の「世慣れた人のつもりでいるバカ」に一致しちゃって、それを思いこまない努力するのって大変なくらい当たっちゃって、なんだかなあ、なのである。


1997.08.10

楽器シリーズ(その3)
マルチエフェクターの罠

 もともと、エフェクターというのは危ないのである。ふだん、アンプにも繋がないで弾いていたエレキギターに、ディストーション付けてアンプに繋いで弾くだけで、突然うまくなったような気がしてしまう。コンプレッサーとか、フェイザーとかも危ない。フェイザーなんて使うと、曲によっては、本当は弾けてないのに、弾けてるように聞こえてしまったりもする。ということで、練習は素でやるのが一番なのである。
 そんなことは分かっているのである。しかし、私は買ってしまった。コルグのパーソナル・マルチ・エフェクト・プロセッサー「PANDORA」。もう、これは何だかわからない代物である。ギターをこれに繋いで、ラジオを付けてFMにすれば、それで音が出ちゃう。つまりFMトランスミッターを内蔵している。もちろんヘッドホンとかアンプとかに繋いでも使える。そして、プリセットされた20のエフェクト音。それを自由にエディットして使える上に、エディット項目も、ディストーション、オーバードライブ、ディレイにフェイザー、コンプレッサーにワウワウ、トレモロ、リヴァーヴ、パンにコーラス、ピッチチェンジャーと、一通りのエフェクトが全て揃っている。さらに、チューニングメーターとメトロノームの機能も内蔵しながら、ポケットサイズで、重さも電池込みの180g。黒のボディに銀のフェイスでデザインもいい。AUX IN端子も付いてる。で、定価22800円のところ、イシバシ楽器で9800円。
 これには、まいった。小物好きの血が騒いで止まらなくて、知り合いに、「これからパンドラ買いに行ってきます」とか宣言して買ってしまったのである。ギタリストでもない私が(しかもギター下手なのにね)。
 で、使ってみたのだけれど、これがいい、いい。ヘッドホンからステレオで聞こえてくる私のギターは、もうトム・シュルツかスティーブ・ルカサー(スティーブ・ヴァイと言わないあたりの謙虚さを買って欲しい)。これでは、ますます、ギターが下手になるのだろうけど、そんなことお構いなしで、私はギターをむせび泣かせるのだ。キュイーン(フレーズはない)。


1997.08.11

荒城の月

Text by 吉田メグミ

 ねえ、あたしみたいな子をよく拾うの?と少女は、靴下をくるくると器用に丸めた中に爪先を差し入れながら、背中を向けたままで尋ねる。
 男は丸首のシャツのままで、よくというほどじゃない、と答えて鼠色のカーペットからネクタイを拾い上げて椅子の背にかけ直す。
 時々は拾うんだ。
 時々はね、と男が答える。少女は男のセブンスターを一本取り出して、火を点けた。
 こういうこと、悪いことだと思う?
 臭いが、染み付かない程度にしておけよ。
 煙草の話じゃないよ。
 ワイシャツの釦を、男は太い指で、もどかしそうにひとつずつ掛けて、解かってるよと答えた。
 “荒城の月”という歌を知ってるか?オレはこういうとき、何となくその曲を思い出して、やるせない気持ちになるんだけど、解かるか?
 少女はしばらく黙って、鞄から取り出したブラシで髪を梳いていた。
そして話す声よりもオクターブ高い声を使って、初めの一節を唄った。
うん、解かる、と少女が言う。解かるよ、こんなに年令が離れてるのになんか不思議だね、ともう一度、今度は最後の一節を唄う。やるせないって、なんか、あたしずっと探してたような気がする、そんな言葉。
 染み付けるもんじゃないよ、と男が言う。
 解かってるってば、と少女は笑った。


1997.08.12

税務署が来た!

 税務署は、いきなりやってくる。何か、証明書のようなものを見せるが、やってきた彼女が、本当に税務署から来たのかどうかを、確かめる術は、こちらにはない。しかし、税務署はやってきて、私の確定申告の書類を調べ始める。彼女は、相当の美人で、話によると三ヶ月の子供がいるというのだが、しかし、彼女はただの税務署である。
 税務署は、何でも知っている。本人が覚えてないような、昔の仕事まで知っている。そして、静かな口調で、優しく、追求する。追求されても、覚えていないものは覚えてないし、源泉徴収票が提出されていないのは、脱税ではなくて、そんな仕事をしたことさえ忘れている上に、仕事を出した会社が源泉徴収票を送ってくれなかったからだ。チェックをしなかった俺が悪いんだけどさ。そんなことを考えながら、高価そうなスーツに身を包んだ彼女の姿を見ていると、犯してやろうか、とか思うのだが、しかし、税務署とセックスすると税金を取られそうで止める。穴も四角いかも知れないし、入れようとした瞬間、「ここは窓口が違います」とか言われる可能性もある。彼女は女に見えるが税務署なのである。
 税務署は、何でもダメと言う。タバコ、新聞など、何でも経費にならないと言う。パソコンは、買ったら五年間使い続けろと言う。五年間使えるパソコンがあるなら持ってきやがれ!と思うが、口には出さずに、お茶をだしたりしてしまう。なぜ、卑屈になるのか。後ろめたいことはないのに。税務署は、ひたすら計算機を叩き続けている。美人だけに、その姿は、今まで見た、どんなホラー映画よりも恐ろしかった。
 税務署は、何でも持って帰る。通帳も、書類も全部持って、また来ます、と言う。彼女が本当に税務署かどうかを確認する術はないのに。通帳を使って何かするのが、税務署員の楽しみかも知れないのに、それを確認する術もなければ、持って行くなと言うことも出来ない。税務署に電話しても、きっと口裏を合わせられるに決まっている。かみさんは、心労のあまり「ごはんを作らない」宣言をする。私は、仕事をやる気を一挙に失う。しかし、「営業妨害だ!」とは言えない。そんなことをしたら、税務署は毎日やってくる。
 税務署は、帰っていったが、きっと、またやって来る。
 奴等は、ときどき帰ってくる。


1997.08.13

書評:ブックス・ビューティフル I・II
荒俣宏 著
ちくま文庫
I 1300円(税込み) II 1200円(税込み)

 マルチメディアとは、文章(テキスト)や、図版、動画、音声などを同次元で扱えるもののことだという。しかし、現在巷にあふれているマルチメディア的なものは、基本的に、文章なら文章、図版なら図版といった具合に、何か一つの表現方法が中心になり、それを他の表現が補助するというスタイルのものが多い。それでは、「絵で分かるマルチメディア」とかいう本と何等変わりはないように見えてもしょうがないことだ。
 この西洋のイラストレーションを中心に、挿絵本史を総まとめした「ブックス・ビューティフル」という本に、次のような一節がある。「挿絵本の歴史というのは、本文の著者とその読者の両方をおどろかすような『図説』や図像化を、一介の絵職人がどのようにして達成するか、そういう挑戦の歴史だったわけです。」これは、そのまま、現在のマルチメディアやホームページデザインでも起こりうる話ではないだろうか。コンテンツをどのように見せていくか、ということを、図版とハイパーテキストで実現する試み、それは、かつての挿絵師や、執筆から挿絵制作、ページ印刷までを一人でこなしていたウィリアム・ブレークなどの絵師が、既に200年以上も前から行っていた試みと変わらない。
 ならば、それを学んでしまえば良いわけで、そういう場合に、この本は非常に役に立つ。まず、挿絵というものの性質についての話から始まり、歴史を追って、本を、ページを、内容を『光輝かせる』ことに成功した挿絵の数々が、カラー図版で収録されているのだ。
 ルネサンス期から行われているという議論、「挿絵は、文章の持つイメージを矮小化するからいらない」という意見に戦いを挑んだ挿絵師たち。現在、そんな議論すら忘れられて、とにかくグラフィカルであれば良いとする風潮に乗って、無責任にイメージを簡略化し、表面上の分かりやすさへと向かうマルチメディアは、一度、原点に立ち返る必要がある。


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