Back to Trouble Coming Everyday
1998.02.01
女の性欲、男の願い
某女性ライターが、KUKI TOWERのInternetCafeという掲示板のようなサービスに「今、ヒマだから誰かデートして」と書いた。すると世界中からデートしよう、という返事がきた。相手が男か女か分かりはしない、さらに日本の東京にいる相手に、イギリスはロンドンからだって返事が来る。
テレフォンSEXのダイアルでバイトしてる女の子に聞いてみると、電話してくる男は、掛けてきた時点でもう充分欲情しているという。女の子は、雑誌などを読みながら、適当に、アァンとか言ってれば終わる奴がほとんどだそうだ。そうじゃない奴は、「おまんこ」を言わせたがり、「欲しい」と言わせたがるそうだ。
某ヘアメイクの女性が質問してきた。「女って自分から咥えたりするようになるもんだって言われたんだけど、私の友達に聞いてもみんな受け身だって言うんです。私もいつか自分から咥えるようになるんですか?」。男はそう思いたい。エロ小説で犯される女性は、だからいつも最後は自分で腰を振る。女性ポルノ作家の本を読むより、著者近影でオナニーする男が多いのって、不幸なのか幸福なのか。文章読めよな。
1998.02.02
Midnight Mating
彼女は怯えている。無理もないと思う。人間の女だって初めての時は恐がるというのに。しかも、こんな夜中に、こんなに狭い所で、初めて見る相手に犯されるのだから。それに、まだ彼女は4才だ。でも僕達には彼女が大人になるのを待っている時間は無かった。
僕達が牧場を始めてから10年になる。単なる競馬好きが、たまたま仕留めた28万円の大穴馬券の使い道として選んだのが、競走馬を創ることだった。そして残ったのは莫大な借金と、結局レースに出してやる事も出来なかった彼女。
でも、彼女には素晴らしい能力がある。それは絶対だ。彼女はサラブレッドではない。血の50%がアラブ、俗に言うサラ系だ。アラブのレースに出走するためには、血の75%がアラブでなくてはならない。だから、彼女を純粋なアラブと交配すれば、その馬はアラブとして登録できる。安い、安すぎる程に安いアラブのクズ馬が、彼女の亭主となる馬だ。そんな血統の馬は誰も買わないし誰も注目しない。そこが僕達の計画の要。バカな計画だけど、僕達にとって最後のビッグゲーム。そして、それには根拠だってちゃんとある。
実は彼女は純粋なサラブレッドなのだ。先にこっそりサラブレッドと交配させておいて、次の日にアラブをつける。書類上はアラブだが、その実態はサラブレッド。一部では、これをテンプラと呼ぶようだ。
アメリカで偶然知り合った老牧夫から、ポーカーの負け分として貰ってきた彼女は、大牧場で働いていた彼のいたずらで創られた馬だ。耳打ちされた血統は、ホラにしてはあまりに大きすぎて、でも、実際見た彼女の気性の激しさ、スタイルの良さは、それを信じさせるだけのものがあった。
「暴れたらこいつを聞かせてやんな」
じいさんはカセットテープを一本くれた。それにはエンドレスで何回も入っている「Goodnight Aireen」。僕達は誰もその歌を知らなかったけれど、彼女の名前はアイリーンに決めた。書類は完璧なアラブだった。そして、彼女は僕達のアイドルになった。
彼女はまだ怯えている。あまり大きな音は立てられないので、小さく「Goodnight Aireen」を聴かせてやった。牡馬は既に興奮して抑えておくのも危なくなってきている。気がつくと僕は涙を流していた。誰かが、もうすっかり覚えてしまった「Goodnight Aireen」を歌いだした。その声も泣いているようだった。
1998.02.03-5
パソコン通信の文章
パソコン通信で使われる文章は、独特である。特に、会議室とかSIGとか呼ばれる、話題毎に分けられた、参加型の場所で使われている文章は、慣れないと異様にさえ見える。誰でも参加できる、という前提があるし、ほとんどお喋りする感覚で書かれた文章なので、そのクオリティは低い。というよりも、文章のクオリティが全く問われない、しかし、文章だけでコミュニケーションを取るという、不思議な場所だ。
文章のクオリティを問わないのは、いいことだと思う。その人が、その人の言葉で書いているのなら、それは、文章力がどうのという以前に、その人の文章として充分に成立するからだ。相手にそれが伝わるかどうかは、相手次第だけれど、そんなことは、日常会話でも当たり前なことなので、それでいい。文章力など気にしないで、参加したいと思ったときに、自分の言葉で参加できる、それがパソコン通信の魅力なのだと思う。そんな場所は、他にはないしね。雑誌の投稿コーナーだって、ある程度の文章力は問われる。
そして、自分の言いたいことを書き、人の文章を読み、コミュニケーションする。だから、そこには、自分の文章を書く、ということ以外には制約が無い世界だと思っていたのだけれど、どうもそうではないらしい所から、パソコン通信の気持ち悪さも浮かび上がって来る。まず、「情報のやりとり」が前提になる会議室がある。それはいい。そこは情報のみを書く場所だというルールがある。そういうルールなら分かる。それは自転車置き場にバイクを置いてはいけません、というようなものだから。しかし、そこにうっかり情報以外のものを書いてしまって怒られる人がいる。それもしょうがない。そこは、そのような発言をする場所ではないから。しかし、ときどき「こんな情報ではないものを読まされるのは、お金の無駄になって迷惑だ」と言う人が現れる。これが不思議だ。情報と一口に言っても、自分にとって有益なものなど、ほんの一握りなのが当たり前で、その一握りの情報を得るために、お金を払って通信をして、会議室に書き込まれる文章を読んでいるのである。ならば、自分に関係ない情報がある、といって怒るのは筋違いだろう。
さらに、「フリートーク」と呼ばれる、お喋りを目的にした会議室があるから、話は複雑になる。お喋りであるから、「はい、そうですね」という一言だけの発言もあれば、延々と長い発言もある。それも当然のことだ。たくさんの人がいて、様々に会話をしているのだから、色んなスタイルもある。しかし、ここで、「マナー」を押しつける人というのが出てくるから気持ち悪い。一行の発言はやめよう、とか、喧嘩はやめよう、とか、特定の個人をひぼう中傷しない、とか、猥褻な言葉を使うな、とか、私には分からないマナーが、どこかにあって、それを絶対のように押しつける人がいる。これが不思議でならない。
人が集まってお喋りをしている。ならば喧嘩くらい起こるだろう。それが何故いけないのだろうか?「会議室の雰囲気が悪くなる」とか「不愉快だ」とか、喧嘩のたびにそういう発言をする人がいる。でも、喧嘩は当事者同士でやってるだけだし、それを「不愉快」と思う人もいれば「楽しい」と思う人もいるわけで、しかも、喧嘩自体も、文章で行われているのだから少なくともその人達は、人に読んでもらいたいから文章を書いているのだ。ならば、それはパソコン通信のコミュニケーションになっているのではないだろうか。会議室の雰囲気、といったところで、それを悪く取るかどうかも人それぞれだ。多くの人が迷惑していると言っても、パソコン通信というメディアが、「文章で話す」という体裁を取っているのだし、そこには、当然、文章を読む読まないの自由もあるのだから、迷惑もしょうがない。マナーとは、自分が守るもので、人に教えたり押しつけたりするものでは無いはずだ。一行の発言が嫌いなら、しなければいい。しかし、それをする人を止める権利は無い。猥褻な言葉も、それが度が過ぎていれば、何らかの注意が、その場所を管理している人から成されるだろう。しかし、単なる参加者の一人が「猥褻な文章を読まされて腹が立った」というのは、ただの愚痴だ。だから勿論会議室に書いてもいいし、そのことで、当事者が謝るのもいい。しかし、そういうのを書くのは止めよう、というのは言ってはいけない。それは言葉狩りだ。
それでも、そうやって、マナーがはびこっていく。先人達が築いたルールなのだそうだ。先人って誰だ。長く通信やってるとそれは権力になるのか?長く通信やってる奴らなんか、ただのパソコンおたくじゃねーか、そんな奴らが考えたマナーなんか、ろくなもんじゃねえ!なんてことも言ってみたくなる。
文章だけのコミュニケーションだから、真意が伝わりにくいし、文章力もまちまちだから、言葉遣いに気をつけよう、なんてことを言う人がいる。しかし「文章」というのは、元々、伝わりにくいメディアだし、言葉や表情を駆使しても、伝わらない人には、たとえ目の前にその人がいても伝わらない。言葉遣いに気を付けよう、と言ったところで、誰にそんな文章力があるんだろう。せっかく「文章」という、誤解も曲解も、思いこみも何でもありのメディアで遊んでいるんだから、それはそういうものとして受けとめることは出来ないのだろうか。たしかに、全然関係ない、そこにいない他人をいきなり攻撃するのはよくないし、差別的な用語を乱発するのも考え物だ。しかし、それが書き手がギリギリで選んだ自分の言葉なら、それはマナー違犯では決してないはず。せっかくの、「文章」だけで遊ぶ場所なんだから、変な良識は一刻も早くなくなって欲しいものだと思う。
なんてことを考えてて、面倒になって、私はパソコン通信をしなくなってしまったのでした。でも、メールにもマナーがあるらしいし、インターネットも面倒になってくのかなあ。
1998.02.06
あなたが似てる人
「あなたって、川嶋なおみに似てるね。」と言われた人は、それが褒め言葉なのか貶してるのか、ちょっと悩むのではないだろうか。私はタケカワユキヒデに似ていると、よく言われるが、これも微妙だなあ、と思う。さらに、一体、どこをどう見れば、そいつに似てるなんてことを考えつくんだ、というようなことを言う人もいて、これはもう、「似てる」という表現は、何か、深いものを含んでいるのではないか、という考えが、ごく当然のように浮かんでくる。
まず、「似てる」という人の感情は、大きく三つに分けられるだろう。「悪意」と「善意」と「ラベリング」だ。でも、「悪意」か「善意」かは、見分けるのも大変だし、あからさまに悪意がある場合、たいして似ていないことが多いので、さほど問題はない。ただ、「ラベリング」と「悪意」が組合わさると、それが似てる似てないに関わらず、凄くヤな気分になる。それは、周りの人たちに、「こいつを、○○に似てる、ということにしてしまおう。だって、こいつはそういう奴だから」という悪意がぶつけられるからだろう。例えば、太っている、という部分を抜き出して、他のパーソナリティを剥奪するために「誰それに似てる」というラベリングを施そうとするわけだから、その「悪意」の純度が高い。
でも、「善意」にも「ラベリング」と組み合わせて、「この人は、きっとこういう人だ」という思いこみの補強材料に使われることも多いようで、これもたちが悪い。よく「俺の彼女ってアムロに似てるんだぜ」とか言う人は、ほとんどこれだろう。だから、他人が見たら似ても似つかないことが多い。怖いのは本人には、間違いなく、似て見えている、ということ。
などと考えていると、「似てる」というのは、要するに、その人が相手を把握する、もしくは記号化して分かりやすくするための手段なのではないか、という気がしてくる。他人って面倒だから、そうやって類型化して把握する。そりゃ、楽だよね。だから、凄く仲がよくなって、付き合いも長い相手って、誰に似てるかなんて、ほとんど思いつかないものだ。それは、類型化の必要がないほど、相手を把握しているということなのだろう(もちろん自分なりに、ということだけど)。
1998.02.07
女の武器
セックスというか躰というか、そういうのを「女の武器」と表現することがあるけど、あれって本当に武器になるのだろうか。「女の武器を使って仕事をもらう」とかいう話も聞くけど、普通、そういうのって無いでしょ。だって、能力無いやつに、いくらセックスが上手くても仕事まかせられないもん。ということは、そういうことが出来る女の人は、そういう感覚を麻痺させるようなセックスが出来るってことなのだろうか。それなら充分「武器」だけどさ。何か、ジガバチみたいね。セックス上手い人はいるけど、それが武器になるほどの人って、少なくとも俺は知らない。いるのか?本当に。でも、「女の武器」っていうくらいだから、結構、いるってことなのだろうか。何か、うそつけー、とか思うけどな。
それと、「お金の代わりに身体で」とか言うけど、普通、お金の方がよくないか?何かドラマとかで、2千万円の借金のカタに持って行かれる女性、とか出てくるけど、2千万円の代わりになる身体って、そうそうないと思うぞ。しかも、そういうのってテクニック無視だから、純粋に身体だけの値段でしょ。だったら10万円でもいないんじゃないかなあ。いる? いたら紹介して。
1998.02.08
リング・らせん・ループ
聞いた話によると、映画「リング」「らせん」の劇場では、「リング」終了後、「怖かったねえ」「面白かった」といった話がざわざわと囁かれ、「らせん」終了後、「何、これ。なめてんの」とか、「原作読んでないとわかんねえよ」とか、「ツマンナイー」とかいう喋りが場内を埋め尽くすらしい。私は「リング」だけ試写で見たのだけれど、原作より怖い、と思った。「らせん」は見てないからコメント出来ないけど、まあ、飯田譲治だし、原作はホラーというより医療SFに近くて、あんまり映画向きでもないし、つまんないんだろーなー、とは思っていた。で、実際、そういう感じらしい。
まあ、「らせん」は、ホラーではないから、「リング」のような面白さを期待しても外されるのはしょうがない。原作を読んだ限りでは「リング」より「らせん」の方が面白かった、と言った知人は、「だってリングはホラーみたいだったから」と言っているので、要するにそういうことだ。ホラーが好きなら「らせん」はツマンナイ。個人的には、子供への愛の話だったりもするから、子を持つ父としては、泣けたんだけど、でも、お話しとしては、さして面白くない。でも、それなりに楽しめることは確かだから、映画見てつまんなかった人は原作を読もう。角川文庫になってるから、安いし。
で、問題はループである。これが、続きというより、全ての解決篇なのだ。リングやらせんで描かれていた現象や謎の全てが、これでもか、というくらいに解決される。本当に、解決する必要のない部分まで解決されてしまって、まるで最近の島田荘司みたいだ。しかし、これが、この本一冊だけで考えれば、間違いなく面白い。でも、三部作として見ると、まるで失敗したミステリ。ちょっと評価が出来ないの、私。いいのか? ああいう手法は。いいのか、どんでん返しがミエミエになってても。うーん、保留中。そのうちネタばらしを含めた評論を書いてみたい、という気にはさせてくれたけど。
1998.02.09
プロバイダ選択法
プロバイダの選択は、結構難しい。定額で繋ぎ放題のところは、結構遅いし、高いところは結構速い。高くても人気が出すぎると遅くなるし、定額でも人気が無くて速いところもある。そのバランスが問題。まずは、自分がどのくらいインターネットに繋ぐのかを正確に把握しよう。これは、テレホーダイと定額プロバイダを利用している人には難しい作業だ。なぜなら、そういう人は、どうせお金は同じ、ということで、ムダに長時間繋いでるものだからだ。そこは、心を鬼にして、本当に必要な時間を割り出そう。そして、接続時間にあったサービスを選択する。
次に、プロバイダの実際の速さを、ホームページでチェックする。そういう奇特なページがあるのだ(http://www.hartc.com/provider.html)。これで、おのずと、自分にとって、最も安上がりなプロバイダが選べるはずだ。NetNaviとかがやってる、満足度とかのランキングは、広告とか雑誌情報などに左右される部分もあるし、普通のユーザーって、そんなに複数のプロバイダは知らないから、あんまりあてになんないのよ。なんて原稿を、お仕事のために、今日書いてたんだけど、これでも、一部に不穏当な表現があるってことで、雑誌には、このままの形では載らない。この原稿って、「ケチケチ・インターネット」という企画の一部なんだけど、同じ企画で「最近、よく雑誌の付録に付いてる、AOLの無料アクセス50時間CD-ROM」をいっぱい集めて使う」というのは、ネタそのものがボツ。他に、有料サイトは、複数で手分けして入る、なんていう違法行為も、もちろんダメ。雑誌もなかなか不自由だ。
1998.02.10-11
男友達の時代
普段、原稿書きに使っているコンピュータの辞書をメインテナンスしていたら、予想通りというか、呆れる程というか、ずらずらとひたすらエロな言葉が出てきた。私の辞書は、ワープロとかで打った言葉が自動的に次々と記憶されていくタイプのもので、時々、整理してやらないと、知らない内にどんどん変な漢字変換をするようになっていく。フェラチオ、ネクロフィリア、ニンフォマニア、ペドフィリア、前立腺マッサージ、チンポにマンコ、ヴァギナにアナルにオーラルにオナニーに潜望鏡に尺八にブルセラにヒーメンザーメンプレイメン、強姦、屍姦、獣姦、近親相姦、ビッグコックにバズコック、ファック・ユーに茶臼に帆かけに松葉崩し、大八車に駅弁に神代弓子にGoody吉田、イメクラテレクラキャバクラビデクラ、乱交ランパブ穴あきパンツ、せんずりまんずりパイずりおスペ、素股に手管に脇股小股、バイブにチョックに屹立に濡れ濡れにヌトヌトグチャグチャネトネト舐め舐めグイングイン、ボインボイン、ズルンズルングルングルンブルンブルン、いくらでも一発で変換してしまう私のコンピュータ。ああ、デジタルとエロの生活。
そして、いきなり、エロもデジタルも嫌になる時期がやってくる。
19才、鶴田真由似の巨乳の女の子が、セックスの技を試したい、と言って誘う。
サイテー身勝手オトコのセックス自慢に無反応にしか応対できず、エロのコミュニケーションについて考えることもせず、それにしては色んな女の子と抱き合ってキスするのは嬉しくて、そんな自分を省みもしない。
「最近、彼氏がァ、フェラチオ済んだら騎乗位でやるっていうパターンばっかりになってえ、でも、やたらと求めては来るんだけど」というような話が最近多かったりして、なかなかオトコもナマケモノではあるけれど、サービスのなれの果てって氣もする。でも、この場合、最後にちゃんと騎乗位とはいえセックスするっていうのは、一応誠意だとオトコは思ってるんだから、結構これでコミュニケーションは難しい。しかし、はっきりしているのは、どちらにしろ上になるのは疲れるということだろう。マグロオトコというのも結構いいような悪いような、いずれにしろ、どちらかがキツイ思いをしなければならないような、そんなのがセックスかなあ。だからといって、バックでやれとか、松葉崩しでやれとかいうわけじゃないけど、どっちかが負担に思うのはねえ。
この程度のことをダラダラ考えるけど、実は、そんなことは、凄くどうでもいい。
僕が知りたいのは、セックスをしている時の自分の心理であり、男性の心理であり、快楽とコミュニケーションの狭間であり、どうしたら、気持ちいい相手と気持ちよくなれるかであり、頭でセックスしがちな不幸と、躰でセックスしてしまう不幸と、思考停止態度保留という形で「気持ちいいからいいじゃん」と言ってしまう女子高生とそれにのっかるオトコの罪と業と、どうやったら男同士でセックスに代わるコミュニケーションを確立できるかと、女の子とちゃんと仲良くなるのに、手っ取り早いという理由でセックスするのはいいものかということと、抱きしめたいという衝動の出所と、欲望による心理のねじまげと、エロの効能と、エロであるということと、そのへんを適当に済ましたらマズイんじゃないかという氣がするその原因だったりする。
でも、そんなこともどうでもいい時もある。この原稿がフェラチオの最中に書かれているというのに。
今年から、ついに男友達の時代がやってくる。それはもう明らかだけど、それを伝える言葉が無い。でも、とりあえず女の子の友達の方が多い、という男はろくでなしだ、という部分は、もしかすると皆が思っていることではないかと思う。
悩みもジレンマも夢も希望も、女の子にしか語れなくなってしまった男の子が着実に増えている。
コンビニでエロ本見ながらマスかいてる小学生がいる。殴る。
この人は、一番僕を理解してくれる。という場合の対象が基本的に女の子になっている男は、もう死んだ方がいいかも。そこまで自分と向き合うのを放棄して、適当な相づちと、ちょっとだけ胸をえぐられる思いだけが欲しいのか、と考えると泣きたくなる。女の子は基本的に、弱った男の子に対して優しい。女の子は男の子の相談にはすぐにお姉さんになることが出来る。そんなの男も知ってる。知ってて、なお、それを求める。愛情のパターンが均一化していく。そんなこと女に聞いてどうすんだよーっ!と、叫ぶ僕はホモではもちろんない。自分が男であることを愛せなくなってるのか。もしくは見ないのか。欲望による心理のねじまげって、そういうことだ。
マザー・コンプレックスって、結局はそれだけのことかも知れない。簡単でお手軽で、ついでに気持ちよかったらラッキー。そんなお手軽な愛情にセックスを載せると、「君はほんとうに頭がいいねえ」というような、もしくは「君って面白いね」とかいう言葉が出てくるんだろう。
母ちゃんのオッパイでもしゃぶってな。
セックスは言葉にすると全てが比喩でしかなくなる。比喩で塗り固めておいて、ウッとかいって射精して、何か嬉しい?嬉しくないから征服欲とか持ち出すんじゃねえの?どうせ比喩だからゲームでもビデオでもOK。
この人はこういう風に私を口説くのか。
そうやって、服を脱ぎ、みっともない裸をさらして、腰をポクポク動かす。そして、射精する。射精感は愛情とは無関係だ。でも、キッチリ出すものは出す。比喩じゃなかったの?コミュニケーションの比喩としてのセックスは、セックスの比喩としてのコミュニケーションにすり代わっていく。もしくは、そういうことにしておく。エロに対する欲望と、エロに対する憧れとエロに対する認識は、全て女性のフェラチオの中にうずもれていく。女性の性欲はフェラチオやパイずりの中にある、と、よがる女を見て安心する。
女はみんなフェラチオが好きなんだ。
そうやって、男であることは、そのままコミュニケーション不全へとつながっていく。コミュニケーションって本当に必要かどうかも分からない。全ては薮の中で迷路になって八幡の薮知らずは、出口を見つけることができないまんま。ママ、オッパイって言ってるだけの男が、女の子の友達が多いことだけを拠り所に男であることを失っていく。女の子とセックスしてりゃ社会的に認められる。何で?相談も精液も悩みも愚痴も快楽も愛情も言葉も音楽も、全部マンコの中に放り込んでおけば安心。そうやって女の子は物わかりの良い女性を演じて楽が出来る。言うこと無し。
千年の昔から、男は楽するために女を姦ることにしている。ずーっと。権力者が両刀になるのは、だから自然なことだ。そして、その中で女は卑怯になっていく。そっちが楽だから。どこに愛情があるんだろう。
男友達の時代が来る。と思ったら、ただの、二人連れの時代が来ただけだった。そういうことか。
1998.02.12
写真のウソ
当たり前だけど、写真はウソだ。それがプロの作品であればなおさらウソの度合いが高い。そして、どういうウソをつくか、どのようなウソを見せるかが、写真家の腕だ。インターネット上のエロ写真が、ほとんどつまらないのは、単に、スケベな素材を撮っただけの写真が並んでいるからで、そんなものに「いやらしさ」は無い。猥雑さとか汚さはあるけど、それは素材が持つものだし。ちゃんと、エロなドラマを感じさせてくれるのって、せいぜいがセルフヌードくらいだけど、それにしても、ドラマよりも自己顕示の方が強くて面白くない。それは、自分のことばっかり喋る奴の話に付き合うようなもので、相手に愛情があれば、それなりに楽しめるけど、そこに、相手を楽しませようという意志は全然ないわけで、当たり前だがシロートだ。
荒木経惟の写真、特に、彼が写真日記として発表しているものなどは、どう見てもスナップに見える。そこで起こったことを、そのまま撮っているように見える。しかし、実はそんなことはないのだ。そこに写されているソープの女の子が、どんなに親密な表情を見せていようとも、それは、相手が荒木氏と親密だからではない。彼が、そういう写真を創っているのだ。だから、相手の彼女は、ほんの五分前に会ったばかりかも知れないのだ。まるでソープに見える背景も、ただのスタジオの片隅なのかも知れないのだ。そうやって、彼はドラマを撮る。
モデルと親密にならなければ良い写真が撮れないと思ってる奴はアホだ。写真って、そういうものだ。
そして、当たり前だが、映画も文章も絵画も音楽も、そうやって、作り手が見せたいドラマを創る手段だし、フィクションというのは、そういう意志の産物なのである。「事実は小説よりも奇なり」とか、「ホンモノの迫力」とか、いつまでそんなバカな事を言ってるんだろう。小説は事実より奇に決まってるじゃん。実話を元にしてるから凄いって思うなんて悲しいじゃない。
クリエーターは、何故クリエーターって呼ばれてるかというと、それはウソを創るからなのにね。