Back to Trouble Coming Everyday
1998.02.21
GADGETシリーズ(1)
DVDプレイヤー:PANASONIC DVD-L10DVDの将来がどうなるか、それは分からない。しかし、DVDの現状は、結構惨憺たるものだ。DVD-RAMやROMの規格は定まらないし、DVD-VIDEOは、意外とプレイヤーが安いのにも関わらず、さほど売れていないようだ。その原因は、はっきりしている。ソフトが無いのだ。発売されるソフトのラインアップを見ていると、まるで、レーザーディスクが始まったころと同じで、何か、「エマニエル夫人」とか「プライベートベンジャミン」とか「グリーンベレー」とか「博士の異常な愛情」とか、そういうのは、見る人がいるいないに関わらず、発売されることに決まっているかのようだ。そんな状態でプレイヤーが売れるわけない。
という状況の中で、私はDVDプレイヤーを買ってしまった。しかも、据置型なら3万円代から買えるというのに、私が買ったのは定価15万円の代物。同じ携帯型でも、東芝のプレステみたいな形のやつなら6万円で買えたのに。パイオニアのレーザーディスクとコンパチになってるやつの最高級機種でも14万円なのに。ほとんどCDウォークマンくらいの大きさで、しかも液晶が付いてて、どこででも見られるというだけで、この高価格。店の人も「松下、強気ですよ」と言っていた、ぼったくり的な商品。それに、我が家には、置場所が無いのだ。仕事上アダルトものも見る必要がある私としては、リビングに置くわけにもいかず、画面ショットを撮る必要もあるので、パソコンにも繋げなければならない。そうなると選択枝は携帯型のみ。で、携帯型は、パナソニックか東芝からしか出てない。東芝は、かつて仕事でイヤな目にあったんで買いたくないし、何よりデザインが歴然。東芝のはカッコ悪くて、パナソニックのはカッコいいのだ。価格差は2倍。悩んだ挙げ句、実は最初から決めていたので、あっさり購入した。
で、使ってみたのだけど、機械としての魅力は十分だ。ビデオCDだって音楽CDだって再生できるし、仕事中に、ちょこんと横に置いて、液晶で見るスマップも中々楽しい。藤崎みなみのセックスもスケベっぽくて魅力(その二つしか、今はソフトが無いの)。
で、どんなソフトが出てるのか調べたら、これが意外なことに、洋画はそれなりに充実している。ハリウッドがDVDをプッシュしてる関係だろう。でも、やっぱりまだまだタマ不足。欲しいソフトはほとんど無い。でも、このプレイヤーで何か見たいという欲求は日に日に高まっていく。それだけの魅力がある機械なのだ。便利だしね。しょーがなくてビデオCDとか見てる。あと、音楽CD聴いてる。超高級CDウォークマン状態で、立川志らくの落語聴いてる私は嬉しいのか?
1998.02.22
STEREOLABのこと
何となく、ずっとSTEREOLABを聴き続けてきたのだけど、好きかと言われると困ってしまう。どのアルバムを聴いても、それなりに楽しめるし気持ちいいし好みの音ではあるんだけど。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはもちろん、私がリアルタイムで愛していたSuisideとか、Magazineとか、リザードとか、そういう80年代初頭の雰囲気が、あまりに強くて、聴いていると、その時の気分が思い出され過ぎて、そういうものを愛していた自分が抱えていたヤなモノが甦るようで。そういう状況がまた来るのかと思ったら気持ち悪くて。
これを、今やる意味って何なんだろう。とか思いながら、もう何年も聴き続けている。最近のアルバムは、ちょっと卑怯なワザも覚えてきたようで、結構気楽に聴ける曲も増えてきたんだけど、そうなるとそうなったで、また別の怖いモノがゾロゾロと現れてくるみたいで気持ち悪くもなる。
そう思うと、面影ラッキーホールは、同じ様な気分を引きずりながらもバカな分いいのかも。でも、いずれにしろ、そういう引きずりモノは、憑き物にも通じるみたいで、やっぱり怖い気がする。そういうのを聴きたい気分の時の自分って、何か憑いてるんじゃないの?とかも思う。10年かけて憑き物落とししたはずなのにね。甦るなあ。Music for Living Dead。ゾンビはちゃんと殺しとかないと、後で怖い目にあう。STREOLABが、そういうモノのレクイエムをやってくれる日を待っているのかも知れない。アレは、幸せではないと思う。
1998.02.23-24
歌舞伎のサイコキラー
歌舞伎は、幕府からの締め付けによって、勧善懲悪でなければならなかったり、悪人は最後まで悪人、善人は最後まで善人(「もどり」という例外はあるが)で通さなければならなかったりと、そのドラマツルギーにおいて、大幅な制約を受けていた。そのため、一人の人間のなかにある悪の部分と善の部分の葛藤や、善悪の基準が曖昧な相対的なドラマなどは作れないようになっていたのである。その制約の上でドラマに変化を付け、面白いものをつくるために、大悪人を名代の役者に演じさせ、最後にはちゃんと成敗されることにした上で、猟奇的な殺人を美しく見せたり、狂気の名目で、大量殺人を正当化したりと、様々な工夫を凝らしている。ストーリー全体が勧善懲悪でさえあれば、途中、どのようなことが起こってもよいという構造の芝居も多く、デカダンの世相もあってか、猟奇的な話やオカルトまがいの話も量産された。その中には、現在言うところのサイコホラー的なものや、狂気の果ての美しさなどを見せることを目的にした芝居もあり、その面白さという点では、現在のサイコ的な作品にひけをとらない作品もある。勧善懲悪の制約を逃れるのに、狂気というのは便利な隠れ蓑だったのかも知れない。そういう歌舞伎の中のサイコをいくつか並べてみようと思う。
「東海道四谷怪談」(とうかいどうよつやかいだん・1825年初演)で有名な、四世鶴屋南北は、その突出した奇想で数々の奇怪な作品を残している。その彼の作による「絵本合法衢」(えほんがっぽうがつじ・1810年初演)は、軽いフットワークで次々と善人を殺す悪玉の魅力と殺しの手際を見せることを主眼とした残虐劇である。筋を紹介しているとこの本一冊くらいになってしまうほど複雑怪奇な入り組んだ物なので割愛するが、この芝居の主役であり悪玉の、立場の太平次(たてばのたへいじ)
が凄い。とにかく、気楽に人を殺していく。それが妻だろうと情婦だろうと、殺すほどの理由がなくても、ホイホイと殺していくのである。心理という概念が無い時代とはいえ、これはサイコキラーと呼んでもよいのではないだろうか。同じ芝居に出てくる、うんざりお松が、その役柄としての魅力(川島なおみって感じか)は別にして、悪女としては常識的な枠に収まっているのを見ても、立場の太平次の異常さは際だっている。ライト感覚の殺しを当代の人気役者がたっぷり見せる趣向は、悪の美学というより、異常者の所業というほうが似合っている。歌舞伎の中でもかなり異色の芝居である。
よくある狂気のパターンとしては、内田吐夢監督で映画にもなった「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ・1888年初演・三世河竹新七)がある。俗に言う吉原百人切りである。醜い容貌の朴訥で純情な男が、惚れた遊女に衆人の中で恥を受け裏切られた恨みと、妖刀籠釣瓶の魔力で気がふれて、その遊女はもとより、吉原中の人間を斬って斬って斬りまくる。狂気に冒された醜い男が、華やかな遊廓を不気味に徘徊し惨殺を繰り返すシーンが、何度も執拗に演じられる。同じ様な話が「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば・1796年初演・近松徳三)にも見られるが、こちらは、美男が演じ、殺し場の凄惨な美しさを見せることを眼目としている。籠釣瓶の方が、明治に作られたせいもあってか、より狂気を前面に出した演出になっているようだ。
籠釣瓶の女性版で、より陰惨な話の「菊月千種の夕暎」(きくづきちぐさのあかねぞめ・1829年初演)というのもある。これは四世鶴屋南北の作と伝えられるだけあって、主人公の女が、裏切った男の祝言の席に短刀一本で斬り込むにいたる過程を、気分が悪くなるほど丁寧に描いて、その狂気に説得力を与えている。
サイコホラーというか、映画「恐怖のメロディ」や「危険な情事」のようなパターンの歌舞伎もある。有名な所では、舞踊「京鹿子娘道成寺」(きょうがのこむすめどうじょうじ・1753年初演・藤本斗文作詞)に代表される道成寺ものは、どれも惚れた男に対する女の執念を描いている。男をどこまでも追っていき破滅させようとするストーリーは、様々に形を変えて何度も上演されている。その中でも異色なのが、男を追って狂い、その執念が蛇となった女と、女を追って狂い、鬼となった男が合体して蛇鬼となる、「金幣猿嶋郡」(きんのざいさるしまだいり・1829年初演・四世鶴屋南北)であろう。ただ、ここまで来るともはやサイコものというより伝奇ものなのだけれど、その奇想と、蛇や鬼になるという形での狂気の表現は、舞台で見るとかなりのインパクトを受ける。現在見られるような、狂気がじわじわと迫り来る恐怖とは違い、素朴な狂気ではあるが。
猟奇的な狂気では、これもやはり南北の作による「盟三五大切」(かみかけてさんごたいせつ・1825年初演)がある。ここに出てくる、薩摩源五兵衛は、悪女にだまされ窮地に立たされながら、なおその女を愛し、惨殺した後、その首を持ち帰り、やさしく話しかけ、食事を共にする。現代にも通じる形で異常心理を描いた珍しい芝居の一つであろう。この芝居は初演当時、あまりの陰惨さに客が入らず、近年になってようやく注目されたという。この芝居も、「東海道四谷怪談」などと同じように、忠臣蔵の外伝の形になっている。凄いことに、猟奇殺人の薩摩源五兵衛は実は四十七士の一人として討入にいくのである。
大正時代に発表された、谷崎潤一郎によるいくつかの作品は、歌舞伎の中でも異彩を放ちつつ、異常な世界を描き出す。生真面目な男が、女に振り回されながら殺人を繰り返す「お艶殺し」(一九一五年・久保田万太郎脚色)や、「お國と五平」(一九二二年)などは、現在でも人気のある演目である。
その中でも、「恐怖時代」(一九一六年中央公論に発表、発禁となり、削除・改作の後、一九二一年初演)は、その登場人物のほとんどが殺人鬼であり、奸知に長け、残虐な殺人を繰り返し、それ故の異常で美しい世界を構築する。惨たらしい死体を放置したまま、尚も暗殺の謀略を張り巡らせる美しい側妾。残虐な処刑を趣味にする主君。屈強の忠義の侍を斬り、愛人を斬り、主君をも斬り殺す眉目秀麗の小姓。まさに、サイコキラー同士による殺し合い、殺人合戦である。
また、大正時代になって、ようやく明確に心理を取り入れた歌舞伎も現れる。「生きてゐる小平次」(いきているこへいじ・1925年初演・鈴木泉三郎)がそれである。これは中川信夫監督が映画化しているので、ご存じの方も多いと思う。殺したはずの男がまだ生きているのではないかという不安と恐怖を、幽霊話としてではなく、殺した側の神経症的な恐怖として描いている。不倫の果ての殺人、そして、殺した男の影に怯えながら崩壊していく男女、というストーリーは充分に現在のサイコミステリの体裁を整えている。しかし、その後この分野の発展はあまり見られない。
こうやって挙げていくだけでも、歌舞伎には異常な話が多いと、今更ながらに感心してしまう。当然、精神分析的なテーマは見られないのだけれど、これはこれで充分にサイコなのではないだろうか。いわば、ジャパニーズ・トラディショナル・サイコである。
1998.02.25
電話番号は非通知にするなよ!
ナンバーディスプレイ対応電話を使っていると、誰が非通知なのかも分かる(当たり前だ)。で、見ていると、まず、家によくかかってくるデートクラブの間違い電話。これはほとんど非通知。まあ、しょうがないとは思うけど、「そんなのも知らせられないから、デートクラブに電話するハメになんだよっ!」とか思う。そして、弱小出版社の弱小編集部。これがまた非通知が多い。一体、何を恐れているのだろうか。そんで、アメリカンエクスプレスから電話があったけど、それも非通知。まあ、これは分かるような気もする。で、あと、「オメーなんか友達じゃねーよっ」と思っている、某知人。これが非通知だったときには、何だか、その理屈の合いかたに笑ってしまった。今の所、女性からの電話で非通知は無し。ブサイクほど非通知にする。
ということから、色んな話が導けそうだけど、とりあえず、ここでは事実のみを列挙するに留めておく。
あ、ICQで、名前とかアドレスとかをINFOに入れてないのも、ほとんど男だな。しかも、話してもツマンナイ奴。プライバシーを守ると言えば聞こえはいいけどさ。それって・・・・しまった、何か言おうとしてしまった。
1998.02.26-27
デジタルの怖いこと
デジタルにまつわる怪談というのは、昔から結構ある。例えば、スティーヴン・キングの「神々のワードプロセッサ」に代表される、ワープロで書いたことが現実に起こるというような話や、モニタから幽霊が話しかけてくるといった話、ネットワークを通じて侵入してくる怪物の話や、コンピュータの中に閉じこめられるといった類の話、コンピュータゲームを使って洗脳や催眠暗示を行うという話もあるし、古典「2001年宇宙の旅」なんかに代表される、コンピュータが意志を持つ話などもある。意志を持ったコンピュータの中には「デモンシード」みたいに、女性を強姦して子供を作らせようという話まであって、中々、コンピュータもやるもんではある。
しかし、これらの話は、基本的には、昔「写真に撮られると魂を抜かれる」というデマが信じられていたのと同じ、ブラックボックス的な恐怖、つまり、中身がよく分からないから怖い、という意識が作った物語だ(でも、カメラについても、キングの「サンドッグ」とか、藤子不二雄のマンガとか、ウルトラセブンの「人間牧場」とか、意外と根強くその手の話は作られてる。「邪眼霊」のように、ビデオカメラにまつわる恐怖を上手く描いた作品もあるし)。それと、モニタという、ある意味では、自分に向かって開いている窓のようなものがもたらす恐怖。でも、モノの本には、「みんなで怪談話をしていたら、急に電気が消えた、という話が多いように、霊は電気と相性が良く、電気に対して働きかけることが出来る」というような事も書いてあったりして、だったら、デジタルと霊の相性が良くても不思議じゃない、という気もしないではない(もちろん、電気と霊の関係も、要するに電気というのが目に見えない存在だから、そのようなことを言われるわけで、結局はブラックボックスの恐怖なんだけどね)。ともあれ、デジタル周りに対して、これを「怖い」と思う人が多いからこそ、様々な怪異譚が作られ、噂され、語られるのだろう。
モノはデジタルである。心霊写真一つとってみても、デジカメで撮られた心霊写真というのは、既に、通常の心霊写真とは大きく異なる。何せ、デジタルは全てが「データ」である。ということは、デジカメで撮ってみたら、こんなのが写ってた、という心霊写真と、いたずらで作った心霊写真に違いがないのだ。この二つを比べて、どっちがホンモノかを当てることが不可能なのだ。それは、もはや心霊写真ではないだろう。さらに言えば、知らない内にデータの内容が変更されていた、例えば、デジカメで撮った彼女の写真の顔の部分が徐々に崩れていく、といった現象も、顔が崩れるのではなく、データが変更されているわけで、そこに悪意を感じることは出来ても、実際問題として現れている変化は、単に数値上の変化に過ぎない。これでは、どうも怖くない。わざわざ、霊が、そんなデータの変更をする必然はないし、うっかり写真に写ってしまっても、いたずらとの区別が付かないなら写り損と思って、出てこないかもしれないもんね。パソコンを使っている職場では、「私は何もしてないのに、データが消えてたんです」というような言い訳を聞くことが多いけど、もしそれが本当なら、それは相当怖い怪談である。そこで行われたことは、前述の、「顔が崩れていく彼女の画像」と、本質的には同じ事だから。でも、それを怪談として取り上げる人は、あんまりいない。
これがネットワークになると、結構怖いことは日常のレベルで起こりうる。例えば、普段受け取っている電子メール。会ったことがない相手からの電子メールの場合、それが、もう死んでいる人からだったり、知り合いの別人格からだったり、気がつかないうちに自分が出してるメールだったりしていない、という保証はどこにも無いのだ。「あとで聞いてみると、その時、既にその人は死んでいた」というのは、怪談の定石だが、電気と相性がいい霊なら、データの変更やメールの送信なんか簡単にやってのけそうである。案外、実際に姿を現したり、壁に血文字を書いたりするよりもたやすいことかも知れない(しかし、その前にデータが飛ぶような気もする)。いずれにせよ、パソコンだけを相手にした場合よりも、ネットのように、パソコンの向こう側に誰かがいる、という状況の方が怖いことが多いかも。ま、要するに人間の方が機械より怖い、ということだろうけど、本当に怖いのはそんなことではない。
電子メールの差出人が幽霊や異次元の人でも、別にどうでもいい、というか、知らない人、という点では誰でも同じ事だ。でも、モニタから急に手が伸びてきて顔を掴んだら、それはマジで怖い。心理的な恐怖なんて、物理的な恐怖の前ではひとたまりもないのだ。その手のホラー映画をバカにする人は多いけど、どっちが怖いか、よく考えてみてね。
1998.02.28
Tequila
小粋な、という言い方がちゃんと似合う、そういう数少ないバー。だから、私はここが気に入っている。女が言うのもなんだけれど、男が一人で飲める場所、という感じだ。ここを教えてくれたのは彼だけれど、彼がここに似合っているかどうかは私には分からない。少なくとも見てくれはOKだけど。
「何か作りましょうか?」
彼とは顔なじみのバーテンダーが聞く。いい声。
「チャチャチャ・チャッチャッチャチャ、テキーラ!」
彼は歌う。こういう時、ホントこいつは莫迦じゃなかろうか、と思う。
そう思うと同時に、別のネタを考えているのも私。
でも、私は莫迦なんじゃない。こういうのは、負けず嫌いって言うのよ。