97.4.01-4.15

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1998.03.1-2

妖怪ブームのこと

 妖怪が人気、というと、何だか世紀末のオカルトブームを連想させるけれど、今、流行っている妖怪は、オカルトとはあまり関係がない。
 ブームの直接のきっかけとなったのは、三年前に「姑獲鳥の夏」でデビューした作家、京極夏彦氏による、一連の妖怪小説の爆発的な大ヒット。しかし、その直前から、「ゲゲゲの鬼太郎」でお馴染みの水木しげる氏の旧作が、次々と復刊されたり、古書市場で価格が急騰するなど、その兆しは既にあった。そして、1996年8月「第一回世界妖怪会議」が、水木しげる氏の故郷、境港(ここには、妖怪の像を80体並べた「鬼太郎ロード」があり、年間40万人の観光客が訪れている)で開催された。水木氏、京極氏、それに作家で博物学者の荒俣宏によって設立された「世界妖怪協会」の旗揚げである。500席のチケットは発売後数日で完売。それでも尚、チケットを求める葉書や問い合わせが後を絶たなかったという。さらに第二回が昨年開かれ、さらなる盛り上がりを見せた。その、世界妖怪協会の公認雑誌「季刊 怪」(角川書店)が昨年12月に発売され、紀伊国屋書店新宿店で、今月のベストセラーの上位に食い込む売れ行きを見せた。妖怪ブームはひっそりと、しかし確実に、訪れているのだ。
 例えば「すねこすり」という妖怪がいる。これは、道を歩いていて、ふいに足を取られて歩き難くなる、という誰にでも覚えのある状況を、「それは、すねこすりという妖怪がいるからだ」という風に説明するために存在しているものだ。このように、妖怪と霊を区別しているのが、現在の妖怪ブームの特徴。同じところで、何人もの人が、同じ様な気分になるとき、かつて人はそこに妖怪を作り出した。「妖怪は、闇と共存していくためのロジックですよね。」と、京極氏はインタビューで語っている。誰の心にもある嫌な部分としての「闇」にフタをするのでなく共存する。そんな妖怪にフタをして、「闇」を無かったことにすると、闇はどんどん肥大化して抑えられなくなる。最近の悲惨な犯罪の数々は、そういう歪みが生んだものかもしれない。そんな心の中の闇を抱える若い人たちが、もう一度自分の心を見つめ直そうとしたところに「妖怪」がいた。それは、ある種の精神分析でもある。
 京極夏彦を愛読する女性(27才)は、「妖怪がいる、ということを考えると、色んな心の謎が解けるような気がするんです」と言う。妖怪を知ることは、ストレスや欲求不満が膨れ上がった現代人の心を知ることに繋がる。心の病が蔓延する現代だからこそ、妖怪が復活したのだろう。

 てな文章を日経新聞のウィークエンドのコーナーに書いたけど、多分、このままじゃ掲載されないんで、ここに残しておきます。てきとうぶっこいてるなあ。


1998.03.3

最近買ったCD

「こんなの歌ってました」オムニバス
 アミダババアのうたが入ってたので、バンドの練習用に買いました。ウナヅキマーチを久々に聴いたら、笑ってしまった。

「志らくのピン」立川志らく
 志らくのピン二作目。映画は見てないけど、この人も頑張ってる。どもりが既に芸だぞ。

「恥ずかしい僕の人生」早川義夫
 ついに「からっぽの世界」が収録された。一曲目が「敵は遠くに」というのも泣ける。もう何年、早川義夫を聴いてきたんだろう。

「東京チンドン Vol.1」篠田昌巳
 チンドン屋の音楽は、本当にチンドンチンドンいってるから凄い。このCDは、二枚組で、スタジオ録音とライヴ録音(つまり街頭録音)に分かれているのが嬉しい。「アラビアの唄〜19の春」のメドレーなんて、思わず後をついていって迷子になりそうで嬉しい。

「短くも美しく燃え」ムーンライダーズ
 このベスト盤も結局買っちゃった。しかも、やけにしょっちゅう聴いている。なんだかなあ。

 ああ、なんなんでしょう、このラインアップ。で、「ジェネレーションギャップ」と「春はまだか」と「Escape」とD&DとglobeのCDシングルも買ったの。あと、ザッパのライヴとか、ツェッペリンの曲を、ロンドンシンフォニーがやってる奴とか、T REXのゴールドとシルヴァーとか、ヘナチョコなグランジとか、ステレオラブの買い逃しとか、200motelsのCD-EXTRAとか、無意味にレジデンツの持ってなかった奴とか買った。で、もらった上野耕路も合わせて、延々、音が流れっぱなしの中で、原稿を書き続けているのだった。ときどき、DVDでプリティリーグとレオンを繰り返し見たりもしてる。


1998.03.04-5

ポジティブなこと

 業の肯定、というのを、立川談志が言っている。眠いとか、金が欲しいとか、女抱きたいとか、そういうのは、全部人間の業だけど、それはそれでいいじゃない、という発想だ。それが「落語」だ、と。
 妖怪は闇と共存するための方法だ、というのを、京極夏彦が言っている。怖い闇と自分の間に、妖怪を置くことで、怖いものの存在を認めたままでも生きていけるようになる、という生活の知恵だ、と。

 何となく、そういうのがあると安心する、というのは、世の中にいっぱいある。「開き直り」とか、「恋人」とか、「自分より下の人」とか、「お金」とか、「宗教」とか。

 上の二つって、同じようで全然違うでしょ。多分、ポジティブであるための装置と、その場しのぎの装置は、どこかでごっちゃになって、よくわかんなくなってる。

 で、昔、高校生の頃、「あいつといると安心するんだ」と言った友達に、「安心するような彼女とその年で付き合ってて楽しい?」と聞いたことがあるのだけど、それって、単なる趣味の問題かしら。
 と、最近知り合った高校生が、自分の彼氏について、やっぱり「一緒にいると安心する」って言ってたんで、思わず考えてしまったのでした。


1998.03.06-7

007シリーズ最新作公開記念
「トゥモロー・ネヴァー・ダイ」レビュー

 007が面白い。何というか、もう、いつまでたってもこれかい、という、今となってはのんびりしたリズムが、妙に心地よいのだ。もう、新作の新兵器のクルマなんか大笑いなんだけど、それが007シリーズという枠の中だと、ちゃんとワクワクするアイテムとして機能する。お話しだって、ほとんどバカというか、何故、その仕事を単身でやらなければならないのかサッパリわかんないけど、でも、組織で行動しない理不尽も、007シリーズとしてはオッケーになってしまう。
 最新作は、前作「ゴールデンアイ」や「ダンテズ・ピーク」のピアース・ブロスナンのジェームス・ボンドと、「ポリス・ストーリー3」のミシェル・キング改めミシェル・ヨー演じる中国情報部員が、共にイギリスと中国の戦争を阻止するために活躍するお話。
 敵は、世界にネットを持ちメディアを支配する男。メディアの力で各国を操り、陰謀を張り巡らせて、中国とイギリスに戦争を起こさせようとする。目的は中国でのテレビ放映権。要するに、メディアを押さえれば、その国を征服したのと同じという理論。中々、今日的で、社会的なテーマだ(そうか?)。
 しかし、そこは「007」シリーズ。次々に繰り出される陰謀や襲撃と、それに対するボンドの活躍(何か、凄くリアリティのないピアース・ブロスナンの演技が嬉しい)、さらには敵の奥さんが昔の彼女という設定(ダサダサでしょ)や、全然ボンドの助けが要らない強いボンドガール(で美人でセクシーよ)、ミシェル・ヨーのアクションなどを、良くできた時代劇のようにリラックスして楽しめる。このベタな物語と演出が、忘れかけていたエンタテインメントの本道を思い出させてくれるはずだ。シェリル・クロウの曲に乗せて映し出されるタイトルバックの映像(これだけでも一見の価値有り。懐かしくて新しくてカッコイイ。それをダサイと言うことも出来るけど、カッコイイと思ってさえしまえば、後は娯楽の殿堂だ)を見てるだけで幸せな気分になれる。
 昔、オヤジに連れられて見に行ってたんだけど、何か、それって凄く大事なことだったような気がする。親子(特に父と子、それも男の子)で見るのなら、このシリーズはサイコーかも知れない。死ぬほどくだらないカッコよさ、というのは、こういうのを子供の頃に見てると身についていくような気がする。こういうのは、ビデオじゃダメだ。映画館に連れていってもらえる、というのが重要なのよね。それに、ビデオで見ると、くだらなさがバレ過ぎてしまうし。
 ということで、シネフィルな映画とか、オシャレな映画とか、社会派な映画とか、そういうのばっか見てる人は、絶対、これを見に行くように。こういう世界が残っている、というのは、大事なことだと思うよ。


1998.03.08-9

狂気へ

「眠ってしまえば、正常人も狂人も区別はつかない。」(サミュエル・フラー監督作品「ショック集団」より)

 今、隣りに座っている誰かが、殺人者かもしれない。昨日まで普通に生活していた人が、明日は変態性欲者として誰かを襲っているかもしれない。狂気じみた犯罪に奇妙なシンパシーさえ覚え、いつ、自分の中の歪んだ欲望が顕在化しても不思議ではない。一緒に暮らしていてさえも、正常人と狂人の区別はつかない。正常と異常という区分けも相対性の中に埋もれ、何をもって異常と言うのか、もはや誰にも指摘することができない。現在は、そういうところまで来ている。サイコ・ホラー、サイコ・ミステリ等の流行は、その現在を踏まえて表面化したものだろう。
 サミュエル・フラー監督の映画「ショック集団」が公開されたのは1963年、30年以上前のことである。狂気が、異常心理が、社会的規範からの逸脱であることには変わりはないにしても、未だ社会的規範が、かなり明確なものとして認識されていた時代。それは、ある意味では平和な時代だったのかも知れないけれど、ただ、世間の認識のレベルが違うだけだったとも言える、そんな時代である。そのためエンターテイメント作家としてのフラーがそこで描く狂気は、いかにも分かりやすい、精神病者という烙印を押された人間のものだ。しかし、冒頭に掲げたセリフは、それだから吐かれたものではない。このセリフは、精神病院に収容された男が、主人公に向って吐くものなのである。異常者が正常者に向って、そう言うのだ。
「狂人でさえ頭が冴えるときがある。わたしは白黒映画で、光の変化や、俳優のちょっとした身振りによって、異常から正常への、もしくはその逆の変化を、描いてみたいと思っていた。多くの医者はこうした瞬間を捜す。しかし精神病者のそばに四六時中付きっきりでいることはできない。そうした瞬間はどこからともなくやって来る。たとえば、誰かが首尾一貫した文章の途中に、とりとめもない言葉を漏らすのを耳にする。また、脳が顔面神経に司令を送り、狂人の顔がふだんとは違った様子、《正常》と人が呼ぶような様子をとることもある。」(『映画は戦場だ!』より引用)
 「ショック集団」で、主人公の新聞記者は、精神病院内で行われたらしい殺人についての記事を書くために、そして、そのルポでピューリッツァ賞をとるために、精神病患者(ここでは、妹に暴力的な性衝動を感じる男として)を装って病院に潜入する。狂気の相対化が常識になりつつある現在とは違う、目を背けるべき対象としての狂気と、その捨て所としての精神病院。「こんな異常な計画なのに皆冷静にしてるわ」この計画を喜々として進める主人公達に、その恋人である女(コンスタンス・パワーが演じる。絶品!)は叫ぶ。確かにその行為自体が正常でないのかも知れない。ただ、その行為の原動力になったのは出世や名誉への野心。主人公の頭の中には、社会への不適応や、逸脱への欲求があったわけではないのである。やり手で充分に俗っぽい、有能とも言える一人前の新聞記者である彼にとって、狂気は自分から最も遠い感覚だったはずである。だからこそ、この計画を思い付き、実行したのである。潜入に成功した彼は様々な種類の狂気を目撃する。それは、自分がKKKの人間だと言う黒人だったり、筋肉が固まっている男、ディキシーに異常に反応する男や、MyBonnyを歌いながら男を襲う色情狂の女たちなど。もちろん彼は狂気の実態などに何の興味もない。彼はただ、正常な受け答えの出来ない人達を相手にした聞込みを行うだけである。そして、それにも関わらず、彼の精神は侵され蝕まれていく。彼に犯される妹の役を演じた、彼の最愛の女を、本当の妹と思うほどに。
「彼は訓練を受け、トレーニングを積む。彼の頭は狂っていないことをわれわれは知っている。ただこういうことがある。彼は想像していたよりもほんの少しばかり手強い相手と闘うんだ。つまり人間の脳さ。脳にもまたその帰還不能地点があるということを、思い出してほしかったんだよ。」(『映画は戦場だ!』より引用)
 狂気を演じているうちに、本人の気が狂っていくというプロットだけを見れば、精神病院を舞台にしただけの人間ドラマのようだが、この「ショック集団」の主眼はそこにあるのではないようだ。精神病院は、狂気を相対化するための舞台ではなく、そういう病もあるという単なる現象であり、ここで描かれているのは、主人公の狂った頭の中には何があるかということ、そして、気が狂うというのがどういうことであるのかの一例である。この映画は、冒頭で述べたような狂気と正気の曖昧な境界を描写することで、そういうサスペンスを積み重ねて作られている。だからこそ、この映画は現在のサイコ・サスペンスと比べても、全く色あせることのない衝撃を保っているのだと思う。
 次の年、サミュエル・フラー監督は「裸のキス」を撮ることになる。そこでは、村社会の、集団であるがゆえの狂気と、性的異常者の物語を、その社会の逸脱者である娼婦の視点で描いている。ここでのフラーは、狂気を取り上げることで、正気であることの物語を作っているようだ。
 そして、誰が、いつ、どのようにして気が狂おうとも不思議ではなくなった1989年。フラーは愛ゆえの狂気の物語「ストリート・オブ・ノー・リターン」を撮り上げる。しかし、そこで扱われる狂気は、サスペンスやホラーの形を取るのではなく、暴力映画として描かれているのである。


1998.03.11

青色申告会って誰? Text by 中山由美子

 前から気にはなっていたけれど、今回初めて「青色申告会」の人たちと話をしてしまった。今まで確定申告に行くたびに、殺気だった税務署の中で、何やら暇そうにニコニコとしていたので、きっとこの人たちはいい人なんだ、青色申告にすると待遇がそんなに違うものなんだと、勝手に勘違いしていた。何のことはない、ここは確定申告とは関係のない、青色申告会の入会受付カウンターだった。まず、質問すると、左右のオジサンが「Yea」「No」の、全く違う返事をしてくれる。そして、そのオジサン達は同時に知らん顔する。課税されない限度額を質問すると、「少しは収めた方が格好がつくでしょう」などというアドバイスをされてしまった。結局なんだか、商店街のオヤジにいじめられたような気分になり、商売を妨害されかねないような雰囲気さえ漂ってきたので、入会してしまったけど、別にうちは温泉旅館でも、新装開店のパン屋でもなかったのだった。私の入会金は、きっとこの会の「親睦会」のお茶菓子になってしまうのではないかと思って、すっかりブルーになった私だった。もちろんその日はナーバスになって夕飯は作らなかった。


1998.03.12

密室

 彼女が死んでいたのは、この部屋だ。見慣れた彼女の部屋。僕はここで、彼女と一緒に音楽を聴いて、ゲームをして、お酒を飲んで、笑って、セックスして、喧嘩して、ビデオを見て、写真を撮って、歌って、泣いて、踊って、キスして。
 鍵がかかっていて、チェーンもかかっていて、窓も全部、ちゃんと閉まっていたそうだ。状況は自殺のようだったけれど、彼女の胸にはナイフが不自然な形で突き刺さっていた。僕も自殺では無いと思う。だって、彼女の死亡推定時刻の直前まで、僕は彼女と電話で話してたし、次の日の計画だってしてた。もちろん遺書も無い。
暴行の形跡は無し。体内から毒物も発見されていない。でも、直接の死因は心臓麻痺だそうだ。
 じゃあナイフは?
 僕にはよく分からない。警察の人はあまり詳しい話をしてくれない。それどころか、僕がまるで犯人であるかのように、詰問する口調が厳しい。当たり前だけれど、こんなことに慣れていない僕はビクビクして答えて、それがかえって疑われるんじゃないかと思って、もっとビクビクした。彼女の死を悲しむ気持ちが何処かにいってしまうくらい怯えていた。

 彼女がすごく大事にしてたレコード・プレーヤー。CDって音ヘンだよね、彼女はよくそう言っていた。中野や高円寺の中古レコード店のビニールの匂いを思い出した。ターンテーブルの上に乗っていたのは、デヴィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」。警察の人がレコードを聴くとも思えないから、彼女が最後に聴いていたのがこれなんだろう。「スター・マン」や「ロックンロール・スゥイサイド」が収録されてるやつ。何か出来すぎの感じがする。宇宙人に殺されたというのはどうだろう。その、ダイイング・メッセージ。

 結局、彼女は自殺ということで片付けられてしまった。僕も警察に呼ばれることがなくなり、ビクビクした気分はもう味あわなくて済んだ。彼女はちょっと心臓が弱かっただけだ。僕のせいじゃない。ナイフ?どうしてそんなのが刺さってたんだろう。僕は本当に知らない。


1998.03.13-14

HIROMIXの写真集は買おう

 HIROMIXの写真を見ていると、これはもう才能としか言いようがないなあ、とか思ってしまう。
 写真は写ってしまうものだけど、そこにある写真は、もちろん、現実ではない。身近な素材をスナップしたからといって、出来上がった写真は、身近なものではないし、その時の空気を凄く捉えていたとしても、写真に現れた空気は、当たり前だが、撮影者の意志が入り込んで、さらに、見る人の目が入り込んで、もはや別ものになっていく。だから、HIROMIXの写真には、妙なノスタルジーがある。ノスタルジーというか、失なわれつつあるものへの哀感というか、刹那がすぐに過去になっていく事実というか、そういう、ヘンな悲しさ。
 凄く明るい光の中に、いきなりそういう空気を見せられてしまったら、それはビックリする。風俗を撮ってるようで、全然風俗写真になってないあたりが、荒木さんとの共通点なのは、他のアラーキーもどきが、風俗の現在を切り取ろうと一所懸命なのと比べれば分かりやすいと思うが、それが「写真」ってこと。
 でも、「写真」、真を写す、なんて誰が付けたか知らないけど、そろそろ違う名前にした方がいいかも知れない。真実なんて絶対写らない。時間や空間は、切り取られた瞬間に虚構だ。そこに写っている友達の姿は、本人ではないのだから。
 荒木さんは、スナップに見せかけて、しっかり演出して、それが本当にスナップにしか見えない、というやりかたで、実と虚の境界を曖昧に見せる。HIROMIXは、単に視点と、山ほど撮った写真の中から、選ぶ、という作業を通して、虚構を作っていく。その無駄さ加減が、多分若いということで、それ以外の意味はあんまり無い。そうやって、作った虚構の結果が写真だし、写真そのものの技術は、撮る枚数と、それを見る枚数に比例するから、後の、ホンのわずかの部分に「才能」が必要になる。その才能の名前は「写真を撮ることが出来る」能力。カメラは、その能力を発揮するための道具。目線が捉えた空気とか、その瞬間とか、そういうものを、自分の手で切り取るためには、絵描きが、絵をどう描けばいいか知ってるように、文章家が文章をどのように書くかを知ってるように、写真をどのように撮るかを知っていなければならない。そんなの、人から教えてもらえるようなもんじゃないし、多分、そういうのもをあらかじめ知っているかどうか、ということ。知っている人が努力すれば、写真が撮れる。僕は、それを知らないから、全然写真がヘタだ。そういうことだ。だからといって、日常に写真を撮ることがムダってわけでも無いから、やっぱり撮るけどね。
 いずれにせよ、34才のオジサンとしては、HIROMIXの写真なんかで泣いてる場合ではないのだ。既に、その写真は撮られてしまったのだし、そこにある普遍性は、僕がやっぱり十代だった時の気分さえ記録していてくれる。だったら、僕は、僕に出来る今のことをやってればいい。そういう便利さがHIROMIXの写真にはあるから、一家に一冊、写真集を置いておくことが大事かも。で、そのことについては、「終わったこと」にして、元気に遊ぼうぜ。


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